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法蔵とは誰? [『教行信証』精読2(その147)]

(8)法蔵とは誰?

 法蔵とは誰のことでしょう。無量寿経はこう説いています、「時に国王あり、仏(世自在王仏)の説法を聞きて、心に悦予(えつよ、喜び)を懐き、すなはち無上正真道(菩提)の意(こころ)を発(おこ)し、国を棄て、王を捐(す)てて、行きて沙門(出家修行者)となり、号して法蔵といへり」と。「国を棄て、王を捐てて」というところから明らかに釈迦がモデルとなっていることが知られますが、ともあれ法蔵とは一人の出家修行者であり、われらと同じ人間です。その人間が「若不生者、不取正覚(もし生まれずば、正覚をとらじ)」という誓願を立てたのです。一切の衆生をもれなく救うことがなければ、わたしも救われることがない、と。そしてその誓願が成就して法蔵菩薩は阿弥陀仏となった。
 法蔵の誓願が成就して、法蔵という「わたしのいのち」が弥陀という「ほとけのいのち」となった―これが浄土の教えの核心ですが、そうであるからこそ弥陀の本願がわれらのもとに届き、われらがそれに応答することができるのです。もし弥陀がもとから「ほとけのいのち」であるとしますと、その本願がどれほど有り難いものであるとしても、われらとは無縁のままでしょう。そして「若不生者、不取正覚」が法蔵の誓願であるからこそ、それにもよおされて、われらのこころの底にある古い記憶をよみがえらせるのです、「ああ、そうだ、すっかり忘れていたが、それがわれらのほんとうの願いだ」と。
 プールヴァ・プラニダーナにもう一度戻りますと、これは弥陀が弥陀となる前の、本の願いということで本願とよばれるのですが、これをわれら自身の本の、ほんとうの願いと受け取ることができないでしょうか。われらはそれぞれ「わたしのいのち」として、さまざまな願いをもって生きています。「人から認められたい」とか「健康で長生きしたい」とか、それぞれ自分勝手な願いにしがみついていますが、すっかり忘れているひとつの願いがあります。それが法蔵の「若不生者、不取正覚」という願いです。そんな願いが自分の中にあることをまったく忘却してしまっているのですが、それがあるときふと蘇ります、「ああ、これがわれらのほんとうの願いだ」と。
 われらの願いの底には法蔵の願いがあるのです。

タグ:親鸞を読む
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