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往生はいつ? [『教行信証』精読2(その152)]

(13)往生はいつ?

 親鸞はそのあたりのことを『一念多念文意』において丁寧に語っています。まず第18願成就文にある「即得往生」についてこう言います。「即得往生といふは、即は、すなわちといふ、ときをへず、日をもへだてぬなり。また即は、つくといふ、その位に定まりつくといふことばなり。得は、うべきことをえたりといふ。真実信心をうれば、すなわち無碍光仏の御こころのうちに摂取して捨てたまはざるなり。摂はをさめたまふ、取はむかへとると申すなり。をさめとりたまふとき、すなわち、とき・日をもへだてず、正定聚のく位につき定まるを、往生を得とはのたまへるなり」と。
 これをみますと、親鸞は「無碍光仏の御こころのうちに摂取して、捨てたまはざる」ことが正定聚となることであり、そして正定聚となることを「往生を得」と言うのだとしていることが分かります。このように摂取不捨と正定聚と往生がひとつにつながれ、そしてそれが真実信心をえたそのときであると言うのです。さらにその少し後でこう言います、「すなわち往生すとのたまへるは、正定聚の位に定まるを不退転に住すとはのたまへるなり。この位に定まりぬれば、かならず無上大涅槃にいたるべき身となるがゆゑに、等正覚を成るとも説き、阿毘跋致(あびばっち、不退のこと)にいたるとも、阿惟越致(あゆいおっち、同じ意味)にいたるとも説きたまふ。即時入必定とも申すなり」と。
 もう明らかでしょう。真実信心をえたとき(忘れていた法蔵の誓願「若不生者、不取正覚」がこころの底にあるのを思い出したとき)が正定聚となるときであり、それが往生するということです。信心のはじまるときに正定聚としての往生の旅がはじまるのです。
 さてではその旅の中でどのような光景がひろがるのでしょう。それまでは個々の「わたしのいのち」がそれぞれの自分勝手な願いをかなえようと他の「わたしのいのち」と競り合い、張り合い、勝った負けたと一喜一憂していたのですが、この旅の中では、個々の「わたしのいのち」はそれぞれに「わたしのいのち」であるがままで、みな「ほとけのいのち」としてひとつであることに気づいています。まだ「わたしのいのち」のままですから、それぞれの得手勝手な願いを手放すことはありませんが、でも法蔵の願いの中にいることを忘れることはありません。

                (第9回 完)

タグ:親鸞を読む
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