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『教行信証』精読2(その153) ブログトップ

本文1 [『教行信証』精読2(その153)]

       第10回 煩悩を断ぜずして涅槃をう―正信偈(その2)

(1)本文1

 これまでのところで弥陀を讃える段が終わり、次いで釈迦を讃える偈がはじまります。

 如来、世に興出したまふゆゑは、ただ弥陀の本願海をとかんとなり。五濁悪時の群生海、如来如実の言(みこと)を信ずべし。(如来所以興出世、唯説弥陀本願海、五濁悪時群生海、応信如来如実言)

 (現代語訳) 十方世界の仏たちが世に出られるのは、ただ弥陀の本願を説くためです。この濁りに満ちた悪世に生きるものたちよ、仏たちの真実のことばを信じようではありませんか。

 冒頭の如来は釈迦を指していると見ていいのですが、親鸞自身がこの箇所を注釈するなかで如来とは諸仏のことだと言っています。「如来所以興出世といふは、諸仏の世に出でたまふゆゑはと申すみのり也。唯説弥陀本願海と申すは、諸仏の世に出でたまふ本懐は、ひとへに弥陀の願海一乗のみのりを説かんとなり」(『尊号真像銘文』)と。ですから、釈迦も含めて十方世界の仏たちはみな弥陀の本願を説くためにこの世にお出ましになったのだということです。この文は無量寿経の序分に「如来、無蓋の大悲をもて三界を矜哀(こうあい)したまふ。世に出興するゆゑは、道教を光闡(こうせん)して群萠をすくひ、めぐむに真実の利をもつてせんとおぼしてなり」とあるのに拠っています。
 さて、この弥陀と釈迦に代表される諸仏との関係には、よくよく考えなければならないものがあります。
 弥陀が直に本願を説くのではなく、釈迦をはじめとする諸仏が阿弥陀仏の本願を説くというこの関係は何を意味するのでしょう。弥陀はひと言も発しません。本願を発したのは弥陀ではないかと言われるかもしれませんが、本願を発したのは弥陀因位の法蔵であり、しかもわれら衆生に対してではなく、世自在王仏に向かって「わたしは一切の衆生を往生させなければ仏とはなりません(若不生者、不取正覚)」と誓ったのです。かくして弥陀の本願が生まれたのですが、それについて弥陀自身は何ひとつ語りません。語ってくれるのは釈迦をはじめとする仏たちです。これは一体どういうことか。

タグ:親鸞を読む
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