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本願はむこうからやってくる [『教行信証』精読2(その154)]

(2)本願はむこうからやってくる

 それを釈迦の側から言いますと、釈迦はどうして自らの本願を語ることはしないで、弥陀の本願を語るのか、ということです。釈迦は阿難に向かって、「阿難よ、わたしには一切衆生を往生させたいという本願があるのだ」と語らないのでしょう。それは「若不生者、不取正覚」という本願は「こちらから発する」ものではなく、「むこうからやってくる」ものでなければならないからです。それはたとえ釈迦といえども例外ではなく、本願は釈迦が自ら発するのではなく、むこうからやってくるしかないのです。そして実にこのことは法蔵においても貫かれます。
 無量寿経はそのあたりの経緯を次のように説いています。法蔵が世自在王仏に「われをして、世において、すみやかに正覚を成じ、もろもろの生死の勤苦の本を抜かしめたまえ」と願うのですが、世自在王仏は「汝、みずから、まさに知るべし」と一旦は突き放します。しかし法蔵がなおも「願わくば、世尊よ、広く、ために諸仏如来の浄土の行を敷衍したまえ」と食い下がるに及んで、ようやく「広く二百一十億の諸仏の刹土の、天・人の善悪と国土の麤妙(そみょう、善し悪し)を説く」にいたるのです。
 こうして法蔵は「諸仏浄土の因、国土人天の善悪を覩見して、無上殊勝の願を建立」(正信偈)することになるのですが、無量寿経編纂者がこのような説き方をしなければならなかったのは、法蔵にとっても本願は「みずから発する」ものではなく、「むこうからやってくる」ものでなければならないからに違いありません。さてしかし、釈迦にとって、さらには法蔵にとっても本願はむこうからやってこなければならないものであるというのはどういうことでしょうか。
 ことは「無量のいのち」と「個々のいのち」の関係にかかわります。これまでの言い方では「ほとけのいのち」と「わたしのいのち」との関係ですが、「わたしのいのち」は「ほとけのいのち」に生かされながら、しかし紛れもなく「わたしのいのち」を生きているということです。生かされて生きる、これがわれらの「わたしのいのち」のありようです。そして「ほとけのいのち」がそのように「わたしのいのち」を分け隔てなく生かしめたいと願う、その願いが本願に他なりません。

タグ:親鸞を読む
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