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本文2 [『教行信証』精読2(その158)]

(6)本文2

 さて次に、釈迦の「如実のみことを信ず」ることで、そこにどんな世界が広がるかが詠われます。

 よく一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり。凡聖逆謗ひとしく回入(えにゅう)すれば、衆水、海にいりて一味なるがごとし。(能発一念喜愛心、不断煩悩得涅槃、凡聖逆謗斉回入、如衆水入海一味)

 (現代語訳) 本願に遇うことができ、喜びがわきあがることで、煩悩のままで涅槃の境地に入ることができます。凡夫も聖者も、そしてたとえ五逆誹謗正法のものも、本願の海に入りさえすれば、どんな川の水も海に入ると同じ塩味になるように、みな同じ仲間となります。

 前の二句は曇鸞の『論註』に「凡夫人の煩悩成就せるありて、またかの浄土に生ずることをうれば、三界の繋業(けごう)畢竟じて牽かず、すなはちこれ、煩悩を断ぜずして涅槃の分をう(不断煩悩得涅槃分)」とあるのをもとに詠われています。先に本願海と群生海はひとつであることを見ました。群生の生きる世界とは別に本願の世界があるのではなく、群生の生きる世界がそのまま本願力のはたらく場であるということです。そして群生が生きるのは煩悩の渦巻く世界に他なりませんから、そこがそのまま本願力による涅槃の世界であるということになります。
 煩悩を断じて涅槃に入るのではなく、煩悩のままで涅槃に入るということですが、煩悩がなくなることを涅槃というのですから、これはとんでもない矛盾と言わなければなりません。しかし、煩悩を断ずることが涅槃に入る条件だとしますと、罪悪深重、煩悩熾盛のわれらはいつまでも生死流転から抜け出せず、涅槃に入れないことになります。そこで、本願に遇うことで煩悩のままで涅槃に入ることができるのだと曇鸞はいうのですが、しかしそれをそのままに受けとりますとあからさまな矛盾ですから、曇鸞は「涅槃分に入る」と「分」の一文字をつけ加えたに違いありません。文字通り涅槃に入るのではなく、涅槃にひとしくなるのだということでしょう。
 親鸞は信心の人をさして「仏とひとし」と言いますが、それと同じように、「一念喜愛の心を発すれば」もう「涅槃とひとし」ということです。

タグ:親鸞を読む
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