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煩悩具足のわれら [『教行信証』精読2(その159)]

(7)煩悩具足のわれら

 さてしかし、「信心をうれば煩悩のままで涅槃に入ったのとひとしくなる」というのはどういうことでしょう。安易に分かったような気にならないようにしたいものです。
 いま信国淳氏の本を読んでいるのですが、はっとさせられることがしばしばです。そのひとつが、『歎異抄』3章に出てくる「煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるをあはれみたまひて、願ををこしたまふ」という文をどう読むかについてです。これは、われらは煩悩具足であるがゆえに、どうしても生死を離れることができないのを哀れんで本願がたてられた、と理解されるものでしょう。ところが氏はそう読むべきではないと言われるのです。そうではなくて、われらは己の煩悩を何とか始末しようとさまざまな努力をなすものですが、そのような「自力をたのむこころ」ではいつまでも生死を離れることができないから、それを哀れんで本願がたてられた、と理解しなければならないと言われるのです。
 煩悩具足だから生死を離れることができないのではなく、「自力をたのむこころ」だから生死を離れることができないのだということです。自力をたのむとはどういうことかと言いますと、これは善だからこれをなし、これは悪だからこれをなさず、というように「われもひとも、よしあしといふことをのみまうし」(『歎異抄』後序)あっているということです。しかし親鸞はこう言います、「善悪のふたつ、総じてもて存知せざるなり」と。そして「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもてそらごと、たわごと、まことあることなき」と言い切るのです。
 どうしてそんなことが言えるのでしょう。
 われらはこれは善である、これは悪であると分別しながら、善をなしえず、悪をなしてしまうものですが、そのような自分自身を何とかしなければならないと思います。これが「自力をたのむこころ」ですが、それは己が己を断罪するということに他なりません。これはしかしどういうことでしょうか。己がほんとうに己を断罪できるものでしょうか。嘘つきのパラドクスが頭に浮びます。

タグ:親鸞を読む
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