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みなもてそらごと [『教行信証』精読2(その160)]

(8)みなもてそらごと

 あるクレタ人が「クレタ人は嘘つきだ」と言うとき、そう言っているクレタ人だけは例外であるとしなければ、この言明は意味をなしません。だれかが「わたしは嘘つきだ」と言うとしましょう。そのとき、そう言っていることだけは例外としなければ、この言明はナンセンスです。ということはどういうことでしょう。「わたしは嘘つきだ」と言うということは、そう言いながら、実は「わたしはほんとうは正直ですよ」と言っているのです。「自分のことを嘘つきと言えるほど正直なのです」と言っているのです。同じように、誰かが「わたしは悪人です」と言うとき、実は「自分のことを悪人と言えるということは、わたしはほんとうは善人ですよ」と言っているのです。
 親鸞が「よろづのこと、みなもてそらごと、たわごと、まことあることなし」というのはこのことです。己を断罪しているかのようで、実は己を擁護しているのです。
 「罪悪深重、煩悩熾盛の衆生」(『歎異抄』1章)という自覚はみずからもてるものではないということです。その自覚をみずからもてたと思うのは「みなもてそらごと、たわごと」であるということです。その自覚がほんものだとすれば、それはどこかからやってきて、否応なく気づかされたと考える他ありません。「わたしは嘘つきだ」と自分で自覚したのではなく、「おまえは嘘つきだ」という声に否応なく頷かざるをえなかったということです。その声の前に力なくうなだれたということです。このように、われらは嘘つきであることをみずから自覚することができないのですから、ましてや、嘘つきの自分を自分で始末できるはずがありません。
 われらは嘘つきであることを気づかせてもらうことしかできません。それしかできない無力で哀れな存在ですが、さてしかしこの気づきこそ信心であると言うと驚かれるでしょうか。ある老婦人が村の鍛冶屋さんから「仏に出あうということは、嘘に出あうことだ」と教えられて目が覚めたという話を何かの本で読んだことがあります。自分が嘘つきであることに気づくことが、仏に気づくことだと言うのですが、どうしてかといいますと、自分が嘘つきであると教えてくれるのが仏に他ならないからです。信心をうれば煩悩をもったままで涅槃に入ったのとひとしくなるというのはそういうことです。嘘つきであるがままで、嘘つきであることを気づかせてくれた仏と遇うことができるのです。

タグ:親鸞を読む
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