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海に入りて一味 [『教行信証』精読2(その161)]

(9)海に入りて一味

 「凡聖逆謗ひとしく回入すれば、衆水、海にいりて一味なるがごとし」の二句も『論註』に「海の性(しょう)の一味にして、衆流入れば、かならず一味となりて、海の味はひ、かれに随ひて改まらざるがごとし」とあるのにもとづいています。やれ凡夫だ、やれ聖者だ、やれ悪人だ、やれ善人だと、ひとり一人の違いを言い立てていても、本願の海に入ってしまえば、みな同じ味わいになってしまうということです。「わたしのいのち」はそれぞれに独特の味わいがありますが、その「わたしのいのち」はそのままで「ほとけのいのち」であり、そこではみな同じ味わいであると。
 頭に浮ぶのが『歎異抄』5章の「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟(ぶもきょうだい)なり」ということばです。ここで有情とは人間のみならず、鳥獣虫魚、いのちあるものすべてをさします。
 そう言えば、釈迦がまだ少年であった頃、父王とともに田起こしの祭りに行ったとき、起こされた土からはい出てきた虫を一羽の鳥がさっとついばみ、飛び去って行く様を見て深い感慨をもよおし、「あわれ、生きものは互いに食み合う」と言ったと伝えられています。ついばまれる虫も、ついばむ鳥も、みな自分と同じいのちを生きているのに、一方は食われ、他方は食い、そして自分はただそれを見ているという世のありように「あわれ」という詠嘆がもれ出たのです。この詠嘆の中には、虫も鳥も自分もみなひとつのいのちであるという思いと、にもかかわらず互いに食み合うという対立関係になければならないという思いが含まれています。
 「わたしのいのち」がただ「わたしのいのち」でしかないところでは、「互いに食み合う」ことにあわれをもよおすことはないでしょう。「わたしのいのち」を全うするために必要とあらば他のいのち(これまた「わたしのいのち」にすぎないと観念されます)を食うのは当たり前と思うからです。「わたしのいのち」がそのままで「ほとけのいのち」であると気づいてはじめて、「わたしのいのち」のために他のいのち(これまた「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」です)を食わねばならないことをあわれと思い、また懺悔の念が生まれます。このように「互いに食み合う」ことを悲しむのと、自他ともにひとつのいのちを生きているのを喜ぶことがひとつです。悲しみつつ、喜ぶのです。

タグ:親鸞を読む
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