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『教行信証』精読2(その162) ブログトップ

本文3 [『教行信証』精読2(その162)]

(10)本文3

 次は信心を得るとつねに弥陀の心光に照護されることが詠われます。

 摂取の心光つねに照護したまふ。すでによく無明の闇を破すといへども、貪愛瞋憎の雲霧、つねに真実信心の天をおほへり。たとへば日光の雲霧におほはるれども、雲霧のしたあきらかにして闇なきがごとし。(摂取心光常照護、已能雖破無明闇、貪愛瞋憎之雲霧、常覆真実信心天、譬如日光覆雲霧、雲霧之下明無闇)

 (現代語訳) 弥陀の光明はつねにわれらを照らし護ってくださいます。その光により無明の闇は破られましたが、しかし貪愛と瞋憎の厚い雲はいつも真実の信心の天を覆っています。それは日の光が雲や霧に覆われても、その下は明るく闇はないのと同じことです。

 同じ趣旨のことを源信は「われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩まなこをさえてみずといへども、大悲ものうきことなく、つねにわれをてらしたまふ」と述べています(この文は正信偈の源信讃の中で取り上げられます)。一見したところ、摂取の心光と煩悩の雲霧は否定しあうように思えますが、実際にはそのようにはなっていないということです。煩悩の雲霧が天を覆っても、摂取の心光がある限り、その下に闇はないというのです。摂取の心光と煩悩の雲霧は相互に否定しあう関係ではなく、むしろ互いに依存しあう関係にあるといわなければなりません。さてしかしこれはどういうことか。
 日光と雲霧は、それぞれがそれ自体として存在するものとしては互いに否定しあう関係にあります。雲霧が多ければ多いほど日光は地上に届きにくくなり、密雲がびっしりと空を覆えば、さながら夜のようになります。ところが摂取の心光と煩悩の雲霧のどちらもそれ自体としてどこかに存在するものではありません。それらはただ気づきとしてあるだけで、気づかなければどこにもありません。そして気づきとしての摂取の心光と煩悩の雲霧は互いに否定しあうどころか、むしろ互いに他に依存しています。すぐ前のところで述べたことを思い起こしていただきたいのですが、己が嘘つきであることに気づくことにより(これが煩悩の雲霧の気づきです)、はじめて仏に気づくことができるのであり(これが摂取の心光の気づきです)、また仏に気づいてはじめて、己が嘘つきであることに気づくのです。

タグ:親鸞を読む
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