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摂取の心光 [『教行信証』精読2(その163)]

(11)摂取の心光

 さてここで考えたいのは、「摂取の心光つねに照護したまふ。すでによく無明の闇を破す」とすると、一切の衆生がもうすでに救われているということにならないだろうかということです。
 摂取の心光があまねく照護しているならば、もうみんな往生していることにならないか、しかし実際にはすでに往生しているものとまだ往生していないものがいるではないか、という疑問ですが、これははやくも曇鸞が『論註』において問題にしています。天親が『浄土論』の冒頭で「世尊、われ一心に尽十方無礙光如来に帰命したてまつりて」と述べていることについて、こんな問いかけをします、「問ひていはく、もし無礙光如来の光明無量にして、十方国土を照らしたまふに障礙(しょうげ、さわり)するところなしといはば、この間(けん、世界)の衆生、なにももつてか光照を蒙らざる。光の照らさざるところあらば、あに礙あるにあらずや」と。
 この問いに曇鸞はこう答えます、「答へていはく、礙は衆生に属す。光の礙にあらず。たとへば日光は四天下(してんげ)にあまねけれども、盲者は見ざるがごとし。日光のあまねからざるにはあらず」と。意味は明らかでしょう。弥陀の光明はあまねく照護しているのだが、それを見ることができないものが照護されていないように思っているのであり、それは光明の咎ではないということです。そしてその譬えとして日光と盲者を引き合いに出します。日光はあまねく照らしているのだが、残念ながら盲者はそれが見えず、だから日光がないかのように思うだけだと。
 しかも、日光は日光それ自体として存在していますから、それが盲者には見えなくても存在しますが、摂取の心光は、それに気づかなければどこにも存在しません。かくして摂取の心光はつねに、そしてあまねく照護していますが、それに気づきませんと、どこにもないということになります。観経の「(弥陀の)光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏衆生を摂取して捨てず(光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨)」も、弥陀の光明は念仏の衆生だけを照らすという意味ではなく、一切衆生をあまねく照らしているが、ただそれに気づかなければどこにも存在しないと解しなければなりません。

タグ:親鸞を読む
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