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よこさまに [『教行信証』精読2(その165)]

(13)よこさまに

 「よこさま」とは横にひとっ跳びするというイメージで、階段を一段ずつ上がっていくイメージの「たてさま」と対になります。時間的には「よこさま」が「頓」で、「たてさま」が「漸」となるでしょう。前に念仏と諸善が「比校対論」されたときに「頓漸対、横竪対」とありましたように、念仏は「頓」で「横」であるのに対して、諸善は「漸」で「竪」です。そしてこれらのコントラストの根底にあるのは「他力」と「自力」の対であることは言うまでもありません。
 さて、「階段を一段ずつ上がる」のが自力であるのは当たり前として、「横にひとっ跳びする」のも自力ではないのかという疑問が生まれるかもしれません。たしかに階段を一段一段上がるのは時間がかかるのに対して、横にひとっ跳びするのはあっという間ですが、それは所要時間の相対的な違いにすぎないと見ることもできるでしょう。ここにこのイメージの限界があると言わざるをえません。では「よこさまに」をもっとピタッと言い当てることはないでしょうか。
 それはやはり「気づき」です。
 「よこさまに超える」というのは、これまで意識したことがなかったことにふと「気づく」ということです。「ふと(不図、つまり図らずも)」ということばこそ、気づきは自力ではなく他力であることをよく物語っています。しかし、気づくのも自分ではないか、となおも問われるかもしれません。おっしゃる通り、気づくのは自分であり、他の誰でもありません。でも、自分の力で気づくのではありません。気づきは紛れもなく自分において起こりますが、でも自分が起こしているのではないということです。
 ここで唯識の説を参照したいと思います。唯識では、われらが意識している世界(いわゆる六識、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)の深層に、われらが普段は意識していない阿頼耶識(あらやしき)と末那識(まなしき)の世界があると教えてくれます。その詳細は省かざるをえませんが、ここで考えたいのはそのような無意識の世界のことをどうして知ることができるかということです。意識していないこと、意識しようともできない世界があることをどのようにして知ることができるのか。

タグ:親鸞を読む
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