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広大勝解者とは [『教行信証』精読2(その167)]

(15)広大勝解者とは

 後半の四句に、諸仏が信心・念仏の人を「広大勝解者」とほめ「分陀利華」と称えるとありますが、何かこそばゆいものがあります。信心・念仏の人とは、おのれを「一文不通のもの」とし、「罪悪深重、煩悩熾盛」であると自覚するもののはずなのに、それが「この上なく智慧のあるもの」であり「白蓮華のように清らか」と称えられるというのですから、どうも落ち着きません。とりわけ「智慧がある」とされるのはどういうことか、もういちど意識と無意識に戻り、その意味するところを考えてみましょう。
 われらのこころの表層は意識の守備範囲ですが、その下の深層に無意識の世界が広がっています。われらは普段、表層の意識において、これは是で、これは非、これは善で、これは悪と分別しています。しかしこのようにものごとを分別して知ろうとすること自体、親鸞に言わせれば「よろづのこと、みなもてそらごと、たわごと、まことあることなき」(『歎異抄』後序)であり、その意味では、どれほど分別知があるとされる人も所詮「一文不通」と言わなければなりません。
 ところがその意識のガードの隙をくぐってふいっと無意識が姿をあらわし、そのなかにキラッと光る智慧があるのです。これはわれらが意識してつかみ取った智慧ではなく、むしろ意識のガードが緩んだその隙を狙うように、無意識のむこうからやってきた智慧であり、思いもかけずその智慧に出あうことになります。これが信心の智慧です。これはわれらがつかみ取ったものではなく、むこうからおのずとやってきたものですから、「広大勝解者」と言われても、その広大勝解は賜りたるものに他なりません。
 それは賜りたる智慧であるとともに、もとからあった智慧であるとも言えます。深層の無意識のなかにもともとあったのに、それに出あう機会がなかっただけのことです。賜るという言い方にはすでに自と他の区別があります。もともと自のなかになかったものが他から与えられるというように。ところが深層の無意識の世界では、そもそも自と他の区別がありません。それはもともとあったという意味では自であるとともに、むこうからやってくるという意味では他であるのです。
 無意識の底は抜けていて、そこにはもはや自も他もありません。だからこそ、そこで凡夫と如来が遇うことができるのです。

タグ:親鸞を読む
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