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『教行信証』精読2(その168) ブログトップ

本文5 [『教行信証』精読2(その168)]

(16)本文5

 正信偈の前半、依経段の最後です。

 弥陀仏の本願念仏は、邪見驕慢悪衆生、信楽受持すること、はなはだもてかたし。難のなかの難、これにすぎたるはなし。(弥陀仏本願念仏、邪見驕慢悪衆生、信楽受持甚以難、難中之難無過斯)

 (現代語訳) 弥陀の本願を信じ念仏することは、頑なに分別心を手放そうとしない驕慢な悪衆生には、はなはだ難しいことです。これ以上に難しいことはないと言わざるをえません。

 この四句のもとは、大経の最後のところで釈迦が弥勒にこの経を付属する(与えて世に広めるよう託す)ことばのなかにあります。「如来の興世に値(もうあ)ひがたく、見たてまつり難し。諸仏の経道、得がたく聞きがたし。菩薩の勝法、諸波羅蜜、聞くことを得ることまた難し。善知識に遇ひ、法を聞き、よく行ずること、これまた難しとす。もしこの経を聞きて信楽受持することは、難のなかの難、これに過ぎたる難はなけん」と。
 如来に遇うことは難しく、その教えを聞くことは難しいが、たとえ聞くことができたとしても、その教えを生きる指針とすることはとんでもなく難しいと言います。たまたま仏の教えを本で読んだり、人から聞いたりすることはあっても、ただのおとぎ話としか受けとめられないか、あるいは、何かを言っているとしても自分が生きる上で意味があることとは思えないのが普通だということです。
 なぜそんなにも難しいかという問いに、親鸞は「邪見驕慢悪衆生」と答えます。邪見といいますのは、すぐ上でみましたように、表層の意識において、これは是で、これは非、これは善で、これは悪と分別することです。そのようにあらゆることの是非善悪を分別しようとすること、これが邪見であり、そして自分には是非善悪を分別する力があるとおごりたかぶること、これが驕慢です。それは「みなもてそらごと、たわごと」ではないかと親鸞は言うのです。

タグ:親鸞を読む
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