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難のなかの難 [『教行信証』精読2(その169)]

(17)難のなかの難

 表層の分別知を「みなもてそらごと、たわごと」と言えるのは、深層からやってきた信心の智慧(無分別智)に遇うことができたからです。そこからふりかえってみますと、自分には是非善悪を見分けることができると思っていたことがいかに「そらごと、たわごと」だったかが見えてきます。「われわれはあるものを善と判断するがゆえにそのものへと努力し、意志し、衝動を抱き、欲望するのではなく、反対に、有るものへ努力し、意志し、衝動を抱き、欲望するがゆえにそのものを善と判断するのである」(スピノザ『エチカ』)ことが見えてくるのです。
 それを裏返して言いますと、信心の無分別智に遇うことがなければ、分別知の世界がすべてであり、その外部は存在しませんから、無分別智からでてくることばを誰かから聞くとしても、それを分別知によって判定するしかありません。かくしてそれはただのおとぎ話か、さもなくても自分が生きる上で意味のあるものとは到底思えないということになります。弥陀の本願念仏を信楽受持することははなはだもって難であると言われるのはこのような事情があるのです。
 先に、無意識は意識のガードが甘くなった隙をねらって、ふいに姿をあらわすと言いましたが、それを逆に言いますと、意識は無意識に侵入されないように強固なバリアを築いているということです。信心の無分別智は、この強固なバリアの隙をついてあらわれるのですから、それがどれほど大変なことであるかが分かろうというものです。でも、どれほど難しいとしても、無分別智にひとたび「あひがたくしていまあふこと」ができましたら、その光は分別知の虚妄を明らかにしてくれるのです。
 さてここで大急ぎで言っておかなければならないのは、無分別智の光で分別知が「みなもてそらごと、たわごと」であることが明らかになったからといって、では分別知はすべからく捨てるべしとはならないということです。分別を捨てるということは、もはや本能がそれに代わることができない以上、人間として生きることを棄てることになります。としますと、無分別智から「みなもてそらごと、たわごと」と気づかされながら、その「そらごと、たわごと」を生きるしかありません。そのとき「そらごと、たわごと」を生きることに深い安心があるのです。

                (第10回 完)

タグ:親鸞を読む
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