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よきひとの仰せ [『教行信証』精読2(その171)]

(2)よきひとの仰せ

 弥陀の本願は「よきひとの仰せ」としてリレーされてくるものであるということ、このことに思いを潜めたい。
 気づきとは、これまでまったく意識していなかったことが、あるとき「ふと」意識に上るということですが、「ふと」とか「ふいに」とは言うものの、それには何かきっかけとなることがあるものでしょう。何がきっかけとなるかは分かりませんが、思いもかけないことからあることに気づくのです。プラトンの「イデアの想起説」においても、想起にはきっかけがあります。何か美しいものを見たことがきっかけとなって、すっかり忘れていた美のイデアを想い起こすのです。
 そのように弥陀の本願も、もともとわれらのなかに(その無意識のなかに)あるのですが、もうすっかり忘れてしまい(忘れたこと自体を忘れてしまい)、われらは表層の意識の世界を、それしかない世界として生きています。ところがあるとき弥陀の本願が意識の強固なガードをくぐって「ふいに」姿をあらわすのですが、それにも何かきっかけとなるものがあるはずです。美のイデアを想起するきっかけとなるのが、たとえば一輪の美しい花であるように、弥陀の本願が意識に上るきっかけとなるものがあり、それが「よきひとの仰せ」ではないでしょうか。
 美しい花を見ることは美のイデアを想起するきっかけにすぎませんから、美しい花を見たからといって、みんなが美のイデアを想起するわけではありません。同じように、「よきひとの仰せ」を蒙ったからといって、みんなが弥陀の本願に気づくわけではありません。そして「よきひと」と言っても、この人と決まった人がいるわけではなく、本願に気づくきっかけを与えてくれた人がその人にとっての「よきひと」です。見ず知らずの方がかけてくださったひと言がきっかけとなって本願に気づくこともあり、そのときにはその方が「よきひと」です。
 ではこれから親鸞にとっての「よきひと」たち、七高僧を見てまいりましょう。

タグ:親鸞を読む
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