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ただよくつねに如来のみなを称し [『教行信証』精読2(その176)]

(7)ただよくつねに如来のみなを称し

 龍樹讃の最後は「ただよくつねに如来のみなを称して、大悲弘誓の恩を報ずべし」です。もとになっているのは『十住論』の「もしひととく不退転地にいたらんとおもはば、恭敬の心をもて執持して名号を称すべし」という文です。正信偈の文と、そのもとの文とでは微妙に違っていることに気がつきます。龍樹は「不退転地にいたらんとおもはば」と言いますから、名号を称えることで不退に至ることができると受けとれますが、親鸞は「如来のみなを称して、大悲弘誓の恩を報ずべし」と言うところからしますと、不退に至ることができた恩を謝して名号を称えると読めます。
 みなを称えることをどう位置づけるか。
 先ほどこう言いました、弥陀の本願を憶念した(弥陀の本願に遇うことができた)そのときに、仏のいえに生まれることになり、「わたしのいのち」としての名はそのままに、加えて「ほとけのいのち」としての名を名のるようになると。これはもうすでに不退に至ることができてからのことですから、名を称えることにより不退に至るのではありません。もう不退に至ることができた喜びから名を称えることになるのです。親鸞はそれをはっきりさせようと、名を称えることで「大悲弘誓の恩を報ず」と述べているに違いありません。これが親鸞浄土教のもうひとつの眼目である「仏恩報謝の念仏」です。
 南無阿弥陀仏は名号と言われますが、ただの名前ではありません。それは一人称単数の名のりです。
 まずは阿弥陀仏が「われに帰命しなさい」と名のりを上げ、それに応答してわたしが「あなたに帰命します」と名のりを上げることです。そしてこの招喚と応答が響きあったとき、「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」がひとつになり、「わたしのいのち」を生きるままで「ほとけのいのち」を生きることになります。パウロが「わたしは生きているが、わたしが生きるのではない。キリストがわたしの内で生きるのである」(ガラテヤ人への手紙)と言ったように、「わたしのいのち」を生きるには違いありませんが、そのままで「ほとけのいのち」を生きるのです。
 その喜びのほとばしりが「仏恩報謝の念仏」です。

タグ:親鸞を読む
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