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『教行信証』精読2(その177) ブログトップ

本文4 [『教行信証』精読2(その177)]

(8)本文4

 「よきひと」の二人目は天親です。

 天親菩薩、論をつくりて説かく、無碍光如来に帰命したてまつる。修多羅1によりて真実をあらはして、横超の大誓願を光闡(こうせん)2す。広く本願力の回向によりて、群生を度せんがために一心をあらはす。(天親菩薩造論説、帰命無碍光如来、依修多羅顕真実、光闡横超大誓願、広由本願力回向、為度群生彰一心)
 注1 スートラ、経典のこと。ここでは浄土の経典、とりわけ無量寿経。
 注2 広く明らかにするということ。

 (現代語訳) 天親菩薩は浄土論を造り、その冒頭でこう言われました。わたしは無碍光如来に帰命いたしますと。そして、浄土の経典にもとづいて世界の真相を明らかにし、横さまに迷いから抜け出させてくれる弥陀の本願を広く知らせてくださいました。さらに、本願力のはたらきによって、一切の群生を救わんがために真実の信心を一心として明らかにしてくださいました。

 いつものことながら、短いことばに多くのことが詰め込まれていますので、さっと読んだだけでは頭の上を通り過ぎるだけです。一句一句を解きほぐしていきましょう。まずは「無碍光如来に帰命したてまつる」ですが、これは浄土論のはじめに天親が「世尊、われ一心に尽十方無碍光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず」と述べているのです。天親がこれから浄土論を説くに当たり、何はともあれ、釈迦に向かって、わたしは無碍光如来である阿弥陀仏の命にしたがい、安楽浄土へ往生しようと思います、と言明しているのです。
 いうまでもなく、「無碍光如来に帰命したてまつる」というのは「南無阿弥陀仏」の訳です。「南無阿弥陀仏」はもとのサンスクリットを音のまま漢字に置き換えたもので、細かく言いますと、「南無」のもとはnamo(意味は「帰命する」)、「阿弥陀」のもとはamita(無量の)で、「仏」は仏陀buddha(如来)の略です。それを天親は「無量の光の如来に帰命したてまつる」と述べているわけですが、そこからはっきりしてきますのは、「南無阿弥陀仏」とは一人称単数を主語とする文であるということです。名号という言い方をしますから、「南無阿弥陀仏」はひとつの名詞であるかのように錯覚しがちですが、そうではなく、「わたし」が阿弥陀仏の命に帰しますと宣言している文です。

タグ:親鸞を読む
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