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横超の大誓願 [『教行信証』精読2(その178)]

(9)横超の大誓願

 さて、天親が「わたしは阿弥陀仏の命にしたがいます」と言明する以上、それに先立って阿弥陀仏の命が天親に届いているはずですが、それが「横超の大誓願」です。
 誓願といい本願といいますから、それは誓いであり願いであって、命令と言われると何か違うような印象を受けるかもしれませんが、それは紛れもなくわれら十方衆生に対する命令であることを親鸞ははっきりと教えてくれます。たとえば第18願「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽してわが国に生まれんと欲ひて、乃至十念せん。もし生まれずば、正覚を取らじ」について、「この至心信楽は、すなはち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御ちかひの至心信楽也。…欲生我国といふは、他力の至心信楽のこころをもて安楽浄土にむまれむとおもへと也」(尊号真像銘文)という具合です。
 第18願に「信楽して」とか「わが国に生まれんとおもひて」と言ってあるのは、「信楽せよ」、「わが国に生まれんとおもえ」とわれらに命令しているのだということです。誓いとか願いといわれるのは、法蔵菩薩が世自在王仏に向かって「かくかくのようにしたい」と誓い、願っているからのことで、われらからしますと「かくかくのようにせよ」と命じられていることになります。親鸞いうところの「招喚の勅命」であり、それをやわらかく言い換えますと「帰っておいで」という呼びかけです。むこうから「帰っておいで」と呼びかけられ、それにただちに「はい、ただいま」と応じるのが「わたしは阿弥陀仏の命にしたがいます」に他なりません。
 さて次に「群生を度せんがために一心をあらはす」ですが、これが厄介です。「一心をあらはす」とは先の「世尊、われ一心に」の一心をさしているのは間違いないでしょう。親鸞は信巻において、この一心が第18願の信楽に他ならないことを詳しく論証しています(三心一心問答)。いまは立ち入れませんが、それをもとにしてこの文を考えますと、天親は往生の因としての真実の信心とは何であるかを明らかにしていると読めます。ただ気になるのが「群生を度せんがために」という言い回しです。この主語は言うまでもなく天親ですから、天親が「群生を度せん」とするということになりますが、それでいいのだろうかという疑問がふくれあがるのです。

タグ:親鸞を読む
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