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一心とは [『教行信証』精読2(その180)]

(11)一心とは

 このように親鸞が『浄土論』を換骨奪胎できた背景には、曇鸞の『論註』があります。曇鸞がすでに浄土論の深層を読み込んでいたのです。
 これは前に述べたことのおさらいになりますが、曇鸞は『論註』の最後のところでみずからこう問います、五念門を修することにより「速やかに阿耨多羅三藐三菩提(仏の悟り)を成就することをうといへる」のはどういうわけか、と。それに答えて、『浄土論』には「五門の行を修して、自利利他成就するをもつてのゆゑ」と書いてあるのだが、実を言うと「阿弥陀如来を増上縁となす」と言うのです。われらが五念門を修めることで阿耨多羅三藐三菩提を得ることができるのは間違いないことだが、それも実を言えば阿弥陀如来の本願力によるのだということです。
 親鸞が「群生を度せんがために一心をあらはす」の前に「ひろく本願力の回向によりて」という一句をつけているのは、この曇鸞の解釈が念頭にあるのです。天親が「群生を度せんがために一心をあらはす」のは、その通りに違いないのですが、実を言うと、そこには弥陀の本願力がはたらいているのだということです。われらが礼拝し、讃歎し、作願し、観察し、回向するのはその通りだけれども、実のところは、本願力がそのようになさしめている。ここから「一心」についても新しい見方が生まれてきます。
 「われ一心に」と言えば、普通は「一途に」とか「迷いなく」という意味でしょうが、これまで見てきました流れから、それとはまったく異なった意味あいが潜んでいることに気づきます。「一心に」を「ひとつこころに」と読んで、わが心と弥陀の心がひとつになるという意味あいが浮かび上がってくるのです。こちらにわが心があり、あちらに弥陀の心があるのではなく、わが心がそのまま弥陀の心になるということで、だから「われ一心に」とは「わが心が弥陀の心とひとつになり」ということを意味します。
 信心とは、わが心が本願を信じるということよりも、わが心が弥陀の心である本願とひとつになるということです。「わたしのいのち」がそのままで「ほとけのいのち」となるということです。

タグ:親鸞を読む
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