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継時ではなく同時 [『教行信証』精読2(その182)]

(13)継時ではなく同時

 そもそも礼拝・讃歎・作願・観察・回向という五つの行は、まず礼拝、次いで讃嘆というように時間的に継起するものでしょうか。そうではなく、礼拝のあるところ、すでに讃歎・作願・観察・回向があるものでしょう。礼拝だけがあって、そこに讃歎・作願・観察・回向がないとしますと、それは単なるかたちだけの礼拝だと言わなければなりません。五行のそれぞれについて同じことが言えるはずで、五行は互いにつながりあっているものであり、時間的に切り離されてはいないでしょう。としますと、近門・大会衆門・宅門・屋門・園林遊戯地門の五つの功徳も互いにつながっていて、時間的に継起するものとは考えられません。
 正信偈の文も、よく見ますと、みなひとつにつながっていることを言い表そうとしていることが分かります。「功徳大宝海に帰入すれば」の「ば」は「もし帰入したならば」という仮定条件をあらわすのではなく、「もう帰入しているので」という確定条件をあらわしていますし、「蓮華蔵世界にいたることをうれば」の「ば」も同様で、「いたることができたら」ではなく、「すでにいたることができているので」ということです(仮定か確定かは、「ば」が動詞の未然形に接続しているか、已然形に接続しているかで見分けられます)。
 親鸞は諸行(聖道門)は漸であるのに対して、念仏(浄土門)は頓であると言いますが、漸であるならば、まず近門、次いで大会衆門という具合に一歩一歩進んでいくことになるでしょうが、そうではなく頓となりますと、近門はすでにして大会衆門・宅門・屋門・園林遊戯地門であるということにならざるを得ません。功徳大宝海に帰入することが、すでにして浄土の仲間になっていることであり、そしてそれは取りも直さず蓮華蔵世界に入っているということです。
 あらためて「功徳大宝海に帰入する」ということに思いを潜めてみますと、親鸞が浄土論をもとに「本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき 功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし」と詠っていますように、本願力に遇って功徳の大宝海に入ることは、「わが心」と「ほとけの心」がひとつになること(一心)であり、「わたしのいのち」がそのままで「ほとけのいのち」を生きるようになることですから、それは「すでにつねに浄土に居す」(末燈鈔、第3通)ことに他なりません。これが現生正定聚であり、即得往生です。信心と正定聚と往生は継時ではなく同時です。

タグ:親鸞を読む
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