SSブログ
『教行信証』精読2(その183) ブログトップ

往相と還相 [『教行信証』精読2(その183)]

(14)往相と還相

 功徳大宝海に帰入するそのとき(「念仏まうさんとおもひたつ」そのとき)が往生のときであることはもはや明らかでしょう。ただ、それは往生がはじまるときであり、そのときから往生の生活がずっとつづくことになるのです。往生といいますと「上がり」というイメージをもたれがちですが、それは終わりではなくはじまりです。「前念命終、後念即生」という善導のことばがありますが、本願力に遇うことができたとき、それまでの古いいのちが終わり、そこから往生という新しいいのちがはじまるのです。「わたしのいのち」が「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」を生きはじめるのです。
 このように見ることで五功徳門の最後、園林遊戯地門にも新しい光が当たってきます。往生はいのち終わってからとされますと、「煩悩の林にあそんで神通を現じ、生死のそのにいりて応化をしめす」のも当然それからということになりますが、信心のときに往生の生活がはじまるとしますと、その生活がそのまま「煩悩の林にあそんで神通を現じ、生死のそのにいりて応化をしめす」ものとなります。往相と還相も継時的ではなく同時的であるということです。
 往相が自利で還相が利他であることは言うまでもありませんが、としますと、まず往相、しかる後に還相というように両者を時間的に切り離すことはできません。自利はそのまま利他であり、利他がそのまま自利であることは、他ならぬ法蔵の誓願そのものが何よりも雄弁に語っています。「もし生まれずば正覚をとらじ(若不生者、不取正覚)」(第18願)とは、一切衆生が救われなければ、自分の救いもないということであり、自利と利他がひとつであることの何よりの証言です。信心とともにはじまる往生の生活がみずからが救われていく往相であるとすれば、それはそのままみんなが救われていく還相でなければなりません。
 正定聚としての生活は、因位の菩薩としての生活に他ならず、因位の法蔵と変わらないということです。正定聚としてのわれらは法蔵の誓願をわが誓願として生きるのです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『教行信証』精読2(その183) ブログトップ