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報土の因果、誓願にあらはす [『教行信証』精読2(その185)]

(16)報土の因果、誓願にあらはす

 さてしかし「報土の因果、誓願にあらはす」とはどういうことか。報土の因が誓願であるというのはよく分かります。法蔵菩薩の誓願が成就して安楽浄土が建立されたということであり(そこから報土といわれるのです)、そこに一点の曖昧さもありませんが、分からないのが報土の果もまた誓願であるということです。これは、ただ「報土の因は誓願にあり」と言えばいいところを、ことばの綾でというか、あるいは文字数を整えるためにか、「報土の因果が誓願にあり」と言っただけのことでしょうか。そう受け取りたくなりますが、でもそれだけではないような気もしてきます。ここに果という一文字を加えたくなった何かがあるのではないかと。
 問題は「浄土とは何か」です。浄土論に描かれている、そしてその大もとである無量寿経に描かれている浄土のきらびやかな姿(荘厳)はいったい何か。龍樹の「空」を学んだ曇鸞としては、それを「こことは別のどこか」に建てられた極楽世界のことと理解することは到底できないでしょう。空の思想は、ここに一つの世界が実体としてあること自体を否定するのですから、ましてやそれとは別にもう一つの世界がどこかに実体として存在することを認めるはずがありません。とすると浄土とは何なのか。それが法蔵菩薩の誓願にもとづいて建てられたのはもちろんですが、しかしそれは誓願を離れてどこかに存在するのではなく、誓願のはたらきそのものが浄土ではないでしょうか。
 浄土の因だけではなく果も誓願であるというのは、それを言おうとしているのではないかと考えられます。すなわち、浄土は誓願を因として建てられましたが、だからといって誓願を離れてどこかにつくられたのではなく、ここ、この娑婆のただなかに誓願のはたらきとしてあるということ、これが浄土の果も誓願であるということばの真意ではないでしょうか。浄土ということばは、それを一つの国土、世界としてイメージさせますが、それに囚われることなく、誓願のはたらきをあらわしていると理解するのです。誓願のはたらきを、それがはたらいている場所として表現するもの、それが浄土であると。こう理解しますと、浄土はこの娑婆とは別のどこかにあるのではなく、この娑婆のただなかにあると了解できます。

タグ:親鸞を読む
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