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浄土とは [『教行信証』精読2(その186)]

(17)浄土とは

 浄土論には安楽国土と、そこにおわす阿弥陀仏および菩薩たちの姿が29の荘厳として描かれていますが(国土が17荘厳、阿弥陀仏が8荘厳、菩薩が4荘厳)、国土荘厳のひとつに「梵声(ぼんしょう)、悟らしむること深遠(じんのん)、微妙(みみょう)にして十方に聞こゆ(清らかな声は、人々を深く悟らしめ、あらゆるところに響き渡る)」とあります。安楽国土には清らかな声が響いていて、それを聞くものたちに深い悟りをあたえるということですが、これを曇鸞は注釈してこう言います、「これいかんぞ不思議なるや。経にのたまはく、もしひとただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生ぜんと願ずれば、また往生を得て、すなはち正定聚に入る(親鸞の証巻の読みでは、剋念して生ぜんと願ぜんものと、また往生をうるものとは、すなはち正定聚にいる)。これはこれ国土の名字、仏事をなす、いづくんぞ思議すべきや」と。
 ここで「経にのたまはく」とありますのは、おそらく無量寿経の往覲偈のなかの「その仏の本願力、名を聞きて往生せんと欲はば、みな、ことごとくかの国に到り、おのずから不退転に致らん」を指すと思われますが、曇鸞は浄土に聞こえる梵声を仏の名号の声ととらえ、これを聞くことができれば、本願力によりただちに正定聚不退に入ることができると理解しているのです。浄土の梵声というものを、こことは別のどこかに清らかな声が鳴り響いているところがあり、それが浄土という世界であるとするのではなく、「いまここ」で清らかな声がするというはたらき(本願力)を浄土ということばであらわしていると理解するのです。そのはたらきは「いまここ」においてあり、われらに直に届いているのです。「国土の名字、仏事(仏としてのはたらき)をなす」というのはそういうことです。
 浄土を「いまここ」とは別のどこかにある世界とすることなく、「いまここ」にはたらく本願力を場所として表していると理解することで、往生のイメージも一新されます。浄土が「こことは別のどこか」だとしますと、往生は「ここではないどこかへ往く」こととなり、それはおのずから「いのち終わってのち」のことになります。しかし浄土とは本願力の「いまここ」でのはたらきを場所として表したものであるとしますと、往生とは「いまここにはたらく本願力をわが身に感じる」ことであり、それが起こるのは信心をえたそのときにほかなりません。

タグ:親鸞を読む
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