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『教行信証』精読2(その187) ブログトップ

本文7 [『教行信証』精読2(その187)]

(18)本文7

 曇鸞を讃える偈文の後半です。

 往還の回向は他力による。正定の因はただ信心なり。惑染の凡夫、信心発すれば、生死すなはち涅槃なりと証知せしむ。かならず無量光明土にいたれば、諸有の衆生みなあまねく化すといへり。(往還回向由他力、正定之因唯信心、惑染凡夫信心発、証知生死即涅槃、必至無量光明土、諸有衆生皆普化)

 (現代語訳) 浄土へ往く往相回向も浄土から還る還相回向も本願他力によります。それに与ることができるのはただ信心によってのみです。どんなに煩悩のなかにある凡夫も、信心さえ起これば、そのとき生死の迷いがそのままで涅槃であることに気づかせてもらえます。かくして浄土にいたることができますと、あらゆる衆生を済度するという仕事に参加させてもらえるのです、と曇鸞大師は言われます。

 ここには短いことばでたくさんのことが述べられています。一句一句かみ砕いていきましょう。
 先には「報土の因果、誓願にあらはす」とありましたが、それがここでは「往還の回向は他力による」と詠われます。まったく同じことを違う言い回しでいっているだけです。先には浄土についていわれ、いまは往生(そして還相回向もですが、これについては後であらためて考えます)についていわれているのです、いずれも本願力によると。すぐ前に言ったことですが、往生とは「いま、ここにはたらいている本願力をわが身に感じている」ことです。本願力に生かされて生きていると感じていること、これが浄土へ往くこと、すなわち往生に他なりません。
 次に「正定の因はただ信心なり」とあります。何の因かと言えば、もちろん往生の因です。往生は本願力によるが、その因は信心であるということで、何か往生の因が二つあるような感じです。これは、本願力によって往生させてもらえるのだが、ただ、そこにわれらの信心がなければ本願力もはたらきようがないという意味でしょうか。つまり、本願力だけでは往生できず、そこに信心が加えられなければならないと。本願力プラス信心イコール往生という等式でいいのでしょうか。

タグ:親鸞を読む
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