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ただ信心 [『教行信証』精読2(その188)]

(19)ただ信心

 しつこいようですが、もういちど往生とは何かを確認しますと、「いま、ここにはたらいている本願力をわが身に感じている」ことです。本願力に生かされていると感じていることです。としますと、本願力がなければ往生がないのはもちろんですが、でもそれをわが身に感じなければまた往生はありません。そしてそれを感じることが信心に他なりませんから、その意味では本願力プラス信心イコール往生であると言えます。本願力はいつでもどこでもだれにでもはたらいているのですが、でもそれを感じませんと(これまでは「気づかないと」と言ってきましたが、同じことです)、本願力はどこにもなく、したがって往生もまたありません。
 さてしかし本願力のはたらきに信心をプラスすると言っても、それをわれらがするのではありません。そんなことをしようとしてもできるものではありません。
 信心とは本願力のはたらきを感じることだと言いましたが、どんなことであれ、それが感じることである場合、われらが感じようとして感じられるものでしょうか。たとえば暑いという感覚を考えますと、どんなに暑くても涼しい顔をしている人がいるとしましょう。その人に「こんなに暑いのに暑さを感じないのはおかしいよ」と言ってみても、その人が暑さを感じないのは何ともなりません。その人が「そうか、今日は暑いのだから、暑さを感じるようにしよう」と思っても、そのように感じられるわけではないでしょう。
 感じることはわれらの意のままにはならないのです。
 何かを感じるとき、その感覚はわれらにおいて起こっていますが、でも、われらが起こしているのではなく、その何かが起こしているのですから、われらの意のままにはなりません。本願力のはたらきを感じるということも、本願力のはたらきそのものが起こしているのであり、われらが起こしているわけではありません。親鸞が「信は願より生ずれば 念仏成仏自然なり」(高僧和讃、善導讃)と言うように、信心、すなわち本願力の感受は、本願力そのものから生じるのであって、われらが本願力に加えているのではないのです。
 さてしかし、本願力はいつでもどこでもだれにでもはたらいているのに、それを感受する人(信じる人)としない人(信じない人)がいるというのはどういうわけでしょう。

タグ:親鸞を読む
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