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生死すなはち涅槃なり [『教行信証』精読2(その189)]

(20)生死すなはち涅槃なり

 「信は願より生ず」とすると、信のある人とない人がいるのはどういうわけか、という問いですが、答えはひとつしかありません。願より生ずる信をブロックしているか、していないかということです。ブロックしている人には信がなく、していない人には信がある。としますと、信心とは本願力に何かを加えることではなく、本願力の感受を妨げているブロックが取り去られることと言えそうです。信心とはプラスであるよりはむしろマイナスであるということです。信心といいますと、何かをしっかりつかんでいるというイメージですが、むしろこれまで握りしめていたものを何かの拍子に手放すことのようです。
 さて後生大事に握りしめていたものを手放したとき、何が起こるか。それが次の「惑染の凡夫、信心発すれば、生死すなはち涅槃なりと証知せしむ」です。
 存覚(本願寺3代・覚如の長男)は『六要鈔』(『教行信証』の注釈書)においてみずから問いを立てています、生死即涅槃という深悟の機だけが近づけるようなことを、信心をおこしたとはいえ惑染の凡夫がどうして証知することができるのだろうか、と。ここからは、生死即涅槃とか煩悩即菩提というのは大乗仏教の奥義であり、そんじょそこらの凡夫が関わり知ることができるようなことではないという感覚があったことが窺われます。そして存覚はそれにこう答えます、信心というのは自力の心でおこすものではなく、他力によるのであるから、惑染の凡夫といえどもこの真理に与ることができるのだと。
 これをぼく流に咀嚼しますと、生死即涅槃という真理にこちらから近づこうとしてもかなうものではないが、こちらから真理に近づかなければならないという思いを手放したときに、思いがけずむこうから近づいてくるものだということです。「生死すなはち涅槃なりを証知する」とは、「わたしのいのち」が「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」であると気づくことですが、「ほとけのいのち」を向こうに見て、こちらからどれだけ近づこうとしても、自分の影を踏もうとするときのように、近づいたと思われるだけ遠のいてしまいます。ところが、こちらから近づこうという思いを手放したとき、思いもかけずむこうから近づいてきて、気づいたときにはもう「ほとけのいのち」を生きている。これが「生死すなはち涅槃なりと証知せしむ」ということです。

タグ:親鸞を読む
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