SSブログ
『教行信証』精読2(その192) ブログトップ

聖道の証しがたき [『教行信証』精読2(その192)]

(2)聖道の証しがたき

 「ほとけのいのち」についてそれは何かと問うとき、「ほとけのいのち」を自分の前に対象として立てています。
 ドイツ語で対象をGegenstandといいますが、これは自分に対して(gegen)立てられたもの(stand)ということです。つまり自分と「ほとけのいのち」は主体と客体として向かい合って立つ(gegenstehn)ことになります。自分とは「わたしのいのち」に他なりませんから、「ほとけのいのち」は「わたしのいのち」の外にあるということです。さてこれはどういうことか。いま「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」はひとつであることを証明しようとしているのですが、それをしようとしますと「わたしのいのち」は「ほとけのいのち」の外に立たざるをえないのです。これはもうはなから不可能なことをしようとしていると言わざるをえません。
 「ほとけのいのち」とは「アミタ(無量)なるいのち」であり、それに対して「わたしのいのち」は「ミタ(有量)なるいのち」です。さて「わたしのいのち」が「ほとけのいのち」の外に立って「ほとけのいのち」とは何かを問うとすれば(いま見ましたように、そうせざるをえないのですが)、そのとき「ほとけのいのち」はもう「アミタなるいのち」ではなくなっています。「アミタなるいのち」の外に「わたしのいのち」があるということは、それはもはや「アミタなるいのち」ではないということに他なりません。かくして「一切衆生悉有仏性」ということ、「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」は別ものではないということを証しようとしても、どうにもならないということになります。
 ミタからアミタへの通路はないのです。
 ゼノンのパラドクスをご存知でしょうか。いくつかのパターンがありますが、いまは「飛ぶ矢」を取り上げましょう。矢が放たれたところから標的に到達するためには、その中間点を通らなければなりません。中間点に到達したとして、今度はそこから標的までの第2の中間点を通らねばならず、そしてまた…、という具合で、矢は標的に到るまで無数の(アミタの)中間点を通過しなければなりません。さて有限の時間のなかで無限の点を通過することは不可能だから、矢は的に到達できない。これが「飛ぶ矢」のパラドクスです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『教行信証』精読2(その192) ブログトップ