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飛ぶ矢 [『教行信証』精読2(その193)]

(3)飛ぶ矢

 このパラドクスをどう捉えればいいでしょう。古来、哲学者たちを悩まし続け、いまも悩ましている難題ですが、ゼノンの議論のどこに問題が潜んでいるのでしょう。
 ゼノンは矢が放たれたところから標的に到るまでの直線上に「無限の点が存在する」と考えましたが、どうやらここにパラドクスを炸裂させる地雷原がありそうです。直線の中に無限の点がぎっしり詰まっているというイメージ。このイメージでは無限はすでに直線の中にありますが、しかしそう考えた途端にパラドクスが炸裂します。その無限の点の上を矢はどうやって有限時間内に通過できるのかが分からなくなるのです。無限というものを、そのように「どこかにすでにある」ものと捉えること、つまり無限を実在するものとすることに問題の根源があるのではないでしょうか。
 無限をどこかに実在するものと考えることは、その気になれば無限を捉えることができるとすることです。しかし無限は捉えたと思った瞬間、スルリと指の間からすり抜けていく。さてでは無限なんてどこにも存在しないということでしょうか。確かに、こちらから捉えようとしてもどうにも捉えられないという意味では存在するとはいえません。ミタからアミタへの通路はありません。ところがアミタからミタへの通路はあるのです。道綽が「聖道の証しがたきことを決して、ただ浄土の通入すべきことをあか」したというのはそういうことです。
 さてしかしどのようにして「わたしのいのち」が「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」であるという不思議に通入することができるのでしょう。これまで見てきましたように、「わたしのいのち」から「ほとけのいのち」に通入することはどうあってもできませんが、「ほとけのいのち」の方から「わたしのいのち」に通入することはあるということ、これです。「ミタなるいのち」が「アミタなるいのち」をゲットしようとしてもできるものではありません。でも「アミタなるいのち」があるとき「ミタなるいのち」をゲットしてしまうことがあるのです。
 これが本願に遇うということです。

タグ:親鸞を読む
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