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三信と三不信 [『教行信証』精読2(その195)]

(5)三信と三不信

 三信と三不信とは何が違うのでしょう。
 信といいますと、何かをしっかり握りしめるというイメージがあります。人が「わたしはこれを信じて疑わない」と言うとき、まなじりを決し、こぶしは固く握りしめられ、どんなことがあってもそれを手放すことはないという決意が込められています。どうしてそんなに力むのかといいますと、うっかりしていると、その信にまじりけが生じ、ふたごころとなり、ふらふらしてくるからです。だから、そんなことにならないよう、まなじりを決し、こぶしを握りしめる。一方、親鸞はこんなふうに言います、「念仏は、まことに浄土にむまるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり」(歎異抄、第2章)と。そのとき親鸞は脱力しています。まなじりを決することも、こぶしを握りしめることもありません。
 この違いは何でしょうか。
 主体と客体が分離しているか、それともひとつになっているか、これです。本願名号を称名憶念するとき、称名憶念する自分と称名憶念される本願名号が別ものであるか、それとも一体となっているかということです。本願名号が自分の外にあるとき、それをどれだけしっかり握っていると思っていても、そこにいつなんどき隙間が生まれるか分かったものではありません。それが不淳であり、不一であり、不相続であるということです。しかし自分と本願名号がひとつになっていますと、もうそこにはどんな隙間もありません。仏の心を憶念するわれらの心と仏の心は直結し、仏の心がそれを憶念するわれらの心と直結して、主体と客体は分かれながら、分かれたままでひとつになっています。これが淳心であり、一心であり、相続心です。
 われらが仏の心を憶念しているとき、仏の心がわれらを憶念していて、われらの心と仏の心はひとつです。

タグ:親鸞を読む
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