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一生悪を造れども [『教行信証』精読2(その196)]

(6)一生悪を造れども

 次に「一生悪を造れども、弘誓にまうあひぬれば、安養界にいたりて、妙果を証せしむ」とあります。弘誓に遇うことができ、三信を獲ることができさえすれば(弘誓に遇うことと三信を獲ることは別ではありません)、死ぬまで悪を造り続けても、かならずや涅槃に至ることができるのだというのです。さて、ここで「一生悪を造る」ことと「弘誓にまうあふ」ことが「ども」という逆接でつながれていることに注目したいと思います。この逆接はここに限らず、浄土の教えにおいて一般的な説き方と言えるでしょう。「どんなに罪悪深重であっても、本願に遇いさえすれば云々」というように説かれるのが常です。弥陀の本願はどんな悪人も見捨てず、かならず往生させてくださる有り難い本願であるというように説かれるのです。
 このように説かれる背景には、世間一般では「悪人は、そのままでは救われない」と思われているということがあります。そうした見方を念頭において、弥陀の本願というものはどんな悪人「でも」見捨てることがないというように、弥陀の本願の有り難さが強調されるのです。さてしかしこれでは「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」ということばの衝撃を伝えることができません。このことばは、善人が救われるのは当然だが悪人「でも」救われると言っているのではありません、善人「でも」救われるのだから悪人が救われるのは当然だと言っているのです。
 悪人「でも」救われるのではなく、悪人「こそ」救われると言っているのです。
 この破天荒なことばをきちんと受けとめるためには、ここで言われている悪はどこかに客観的に存在する悪(たとえば法律に違反する悪)ではなく、それに気づいてはじめて姿をあらわす悪をさしているということを理解しなければなりません。歎異抄第1章に「罪悪深重、煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします」とある、その「罪悪深重、煩悩熾盛」とは、どこかにこれと指し示すことができるようなものとして存在しているのではなく、気づきにおいてはじめて存在するということです。その気づきがなければ影もかたちもありません。

タグ:親鸞を読む
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