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気づきとしての悪 [『教行信証』精読2(その197)]

(7)気づきとしての悪

 さて「一生悪を造れども」ですが、これは「自分は一生悪を造り続けるものである」という気づきです。「罪悪深重、煩悩熾盛」という気づきです。
 釈迦の少年時代、父に連れられ、はじめて田起こしをする祭りを見に出かけたときのこと(これは信時淳氏の書物から教えられたエピソードですが、このところ氏の本を繰り返し読んでいまして、その反響がそこかしこに出ていると思われます)、掘り起こされた土からはい出してきた一匹の虫をどこかで見張っていた鳥がさっと啄んで飛び去った。それを見た少年・釈迦の口から漏れ出たのが「あわれ、生きものは互いに食み合う」ということばだったそうです。
 このことばがわれらの身体にズンと響くのは、これが「生きものというものは互いに食い合いながら生存しているのだ」という単なる認識ではないからです。そのような認識であっても「生きもの」の中に自分も入っているでしょうが(人間は食物連鎖の頂点にいます)、それは人間の一人としての自分であり、そうした自分を含めた生きもの全体を自分の外に見つめているのです。そのときには「あわれ」という心の動きはありません。しかし少年・釈迦が「あわれ、生きものは互いに食み合う」と心の中でつぶやいたとき、彼は食み合う生きものたちを外から眺めているのではありません。彼自身がそのまっただなかにいて、その現実に呻き声を上げているのです。
 その声は彼が上げていますが、実のところ、いのちそのものが上げている声と言うべきでしょう。彼を含むいのちそのものの声を彼が代わって上げていると言うべきで、だからこそはらわたに染みるのです。さて、いのちそのもの(それは「ほとけのいのち」に他なりません)が「あわれ、生きものは互いに食み合う」という声を上げるとき、その声は互いに食み合う個々のいのちたちを哀れみながら温かく包みこんでいます。そんなふうにしか生きることができない個々のいのちたちを悲しみ、慈しみながら、それらのいのちたちがそんなふうにして生きることを肯定しています。それが弘誓であり、それに遇うことができさえすれば、互いに食み合いながら救われることができるのです。
 「一生悪を造れども」とは、実際のところは「一生悪を造る宿業に気づいたからこそ」救われるというべきです。

タグ:親鸞を読む
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