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『教行信証』精読2(その198) ブログトップ

本文3 [『教行信証』精読2(その198)]

(8)本文3

 次は善導を讃える偈です。まず前半の3句。

 善導、ひとり仏の正意を明かせり。定散1と逆悪2とを矜哀(こうあい)して、光明・名号、因縁をあらはす。(善導独明仏正意、矜哀定散与逆悪、光明名号顕因縁)

 注1 定善の機と散善の機のこと。定善とは「息慮凝心(そくりょぎょうしん。おもんぱかりをやめ、心を凝らす)」、散善とは「廃悪修善(はいあくしゅぜん。悪をやめ、善を修す)」で、いずれも自力修善であり、歎異抄のことばでは「自力作善」。
 注2 五逆と十悪の罪人。五逆は殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧。十悪は殺生・偸盗・邪婬(以上、身業)、妄語・両舌・悪口・綺語(以上、口業)、貪欲・瞋恚・愚痴(以上、意業)。

 (現代語訳) 善導大士ひとりだけが仏のほんとうの心の内を明かしてくれました。そして阿弥陀仏は定散の善人も逆悪の罪人もわけへだてなく哀れみ慈しんでくださるのであり、光明(ひかり)と名号(こえ)を往生の因となり縁となるものとしてわれらに与えてくださることを教えてくれました。

 善導には観経疏(4巻)、法事讃(2巻)、往生礼讃、般舟讃、観念法門の5部9巻の著書がありますが、何と言っても観経疏がその中心です。彼はこの書において観経のこれまでの見方を一変させました(これを古今楷定といいますが、楷とは「手本」の意味で、これまでになかった新たな基準・手本を定めるということです)。観無量寿経はそのタイトルにもあらわれていますように、仏や浄土を「観る」ことが説かれた経典と捉えられてきました。定善13観(日が沈むのを観ることで西方浄土を観想する日想観からはじまり、阿弥陀仏と観音・勢至の両菩薩がさまざまな姿で現れるさまを観想する雑想観にいたるまでの13の観法)が経の眼目であると思われてきたのです。しかしこれでは息慮凝心のかなわない凡夫には縁のない経典となってしまいますが、善導はその見方をひっくり返したのです。
 観経の眼目は逆悪の下品下生(往生人を上品上生から下品下生までの9種類に分けたときの最下)が十念の念仏で往生できると説くところにあるとしたのです。

タグ:親鸞を読む
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