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光明と名号 [『教行信証』精読2(その199)]

(9)光明と名号

 息慮凝心(定善です)はもちろん、廃悪修善(散善です)もかなわない五逆十悪の下品下生の済度を説くところに観経の狙いがあると善導は見たのです。これが「善導、ひとり仏の正意を明かせり」の意味です。
 さて、ではどのようにして最下の凡愚が救われるのか。それを明らかにするのが「光明・名号、因縁をあらわす」で、弥陀如来は光明と名号という因縁を与えて、最下の凡愚を済度するということです。これについてはすでにこの行巻の途中で説かれていました、「まことにしんぬ、徳号の慈父ましまさずば、能生の因かけなん。光明の慈母ましまさずば、所生の縁そむきなん」と。これでみますと名号が往生の因で、光明はその縁とされています。南無阿弥陀仏という「こえ」が因となり、智慧の「ひかり」が縁となって、往生という果が与えられるということです。
 最下の凡愚はどのようにしても往生をみずから手に入れることができませんから、その因である名号と縁である光明が与えられ、かくして往生という果も与えられるということです。これはもうそうならざるをえません。因(と縁)と果はどちらも与えられなければならないのです。果だけは与えられるが、その因はみずから手に入れなければならないということはありません。もし因をみずから手に入れなければならないのでしたら、その果も自分で手に入れたことになります。因が自力ならば果も自力であり、因が他力なら果も他力となり、因は自力だが果は他力ということはありえません。
 さてしかし往生の因も果もみな与えられるとなりますと、もうわれらの側にはすべきことが何も残っていないということでしょうか。そんなことはありません。先の文にはさらに続きがあります、「能所の因縁和合すべしといへども、信心の業識(ごっしき、気づき)にあらずば、光明土にいたることなし。真実信の業識、これすなはち内因とす。光明名の父母、これすなはち外縁とす。内外の因縁和合して、報土の真身を得証す」と。因としての名号と縁としての光明がそろったとしても、ただそれだけでそこに信心(気づき)がなければ往生はかなわないと言うのです。この点は次のところに関係してきますので、そちらに進みましょう。

タグ:親鸞を読む
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