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『教行信証』精読2(その200) ブログトップ

本文4 [『教行信証』精読2(その200)]

(10)本文4

 善導を讃える後半の5句です。

 本願の大智海に開入すれば、行者まさしく金剛心1を受けしめ、慶喜の一念相応して後、韋提とひとしく三忍2をえ、すなわち法性3の常楽を証せしむといへり。(開入本願大智海、行者正受金剛心、慶喜一念相応後、与韋提等獲三忍、即証法性之常楽)

 注1 金剛(ダイヤモンド)のように固い信心。
 注2 喜忍(信心を喜ぶこころ)、悟忍(仏智を悟りえたこころ)、信忍(信心の定まったこころ)。無生法忍のこと。
 注3 あらゆる存在の真実なありよう。真如のこと。

 (現代語訳) 善導大士は次のようにいわれます。本願の大いなる智慧の海が開き、そこに入ることができますと、もう揺らぐことのない信心をえることができ、喜びで満たされます。そして韋提希夫人と同じように無生法忍をえることができ、真如実相を常に楽しむことができるのですと。

 往生の因である名号と縁である光明が与えられていても、名号と光明の海が目の前に開け、そこへ入ることができませんと、名号も光明も空しいと言わなければなりません。見れども見えず、聞けども聞こえずでは何ともなりません。名号がわたしにしっかり聞こえ、光明に照らされているとわたしが感じること、これが信心に他なりません。先の二重因縁のところで「能所の因縁(名号の因と光明の縁が)和合すべしといへども、信心の業識にあらずば、光明土にいたることなし」とありましたのは、そのことを言っているのです。
 その意味では名号・光明プラス信心イコール往生となるのですが、ただ、前にも言いましたように、この信心というのはわれらが起こせるものではありません。われらにおいて起るのは間違いないことですが、われらが自分で起こしたのではなく、気がついたらもうすでに起こっていたのです。「本願の大智海に開入すれば」という言い回しも、わたしが本願の大智海に開入するのは間違いありませんが、自分の力で大智海を開き、その中にみずから入るということではありません。本願の大智海そのものがおのずから開き、気がついたらもうその中に入っていたのです。

タグ:親鸞を読む
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