SSブログ
『教行信証』精読2(その201) ブログトップ

心の扉があく [『教行信証』精読2(その201)]

(11)心の扉があく

 「開く」ということばはおもしろい。「ひらく」とも「あく」とも読みますが、「ひらく」と読むときは、「みずから」ひらく場合もあれば、「おのずから」ひらくときもあります。「扉をひらく」と言うときは「みずから」ですが、「扉がひらく」と言うときは「おのずから」です。ところが「あく」と読むときは「おのずから」に限定されます。「扉があく」とは言いますが「扉をあく」とは言いません(「あける」と言います)。「本願の大智海に開入すれば」の「開く」は、「おのずからひらく」ということであり、したがって「あく」ということです。本願の扉があるときおのずから「あく」のです。
 そして本願の扉が「あく」ということは、実は、われらの心の扉が「あく」ことに他なりません。
 これまでしっかり閉ざされていた心の扉がどういうわけかふっと「あく」、そのときそこに本願があることに気づくのです。これが信心です。これまでは如来の心(すなわち本願)とわれらの心は扉で隔てられていましたが、それが「あく」ことで如来の心とわれらの心がひとつになる、これが信心です。としますと信心とはわれらが本願につけ加える何かではありません。むしろ本願とのつながりを閉ざしていたものが取り払われることであり、そうすることで本願とわれらの心がひとつになるのです。
 われらの心が如来の心とひとつになる、これが信心です。
 そうしますと、「慶喜の一念相応して後、韋提とひとしく三忍をえ、すなわち法性の常楽を証せしむ」という言い回しも自然に聞こえてきます。三忍をえるとか、法性の常楽を証するなどと言われますと、われら凡愚には縁遠いことのように聞こえ、ややもすると、これらはいのち終わってからのことと解釈してしまいがちです。しかし信心をえるとは、「わたしの心」がそのままで「ほとけの心」となることですから、これまでとはまったく違う世界が目の前に開けたとしても不思議ではありません。「信心のひとは、その心すでにつねに浄土に居(こ)す」(『末燈鈔』第3通)のです。ただ、忘れてならないことは、心が浄土に居すとしても、その身は依然として娑婆のなかでもがいているということです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『教行信証』精読2(その201) ブログトップ