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仏智不思議 [『教行信証』精読2(その204)]

(14)仏智不思議

 仏智不思議と言いますのは、ただ仏智は神秘的だと言っているのではなく、仏智というものはわれらがそれを思議することができるものではないということです。思議するとは「思いはかる」こと、ああだこうだと考えることで、われらがいつもしていることです。そして思いはかるとは、思いはかる自分と思いはかられる相手を分離することです。われらは何かを考えようとしますと、そんなふうに考える主体と考えられる客体を分離し、そうして主体が客体の前に立つということにならざるをえません。これが人知というものですが、仏智はそのように主客を分けて思いはかることがないというのが仏智不思議ということです。
 われらが救いということを考える場合も、そこには当然のこととして、自分と自分以外の人たち(もっと広げて生きとし生けるものたち)との分離が持ち込まれ、自分の救いと衆生の救いは分かれざるをえません。どれほど親しく近しい関係にあるといえども、自他は分かれざるをえず、自分の救いと他の救いとは別とならざるをえません。ところが仏智においては「若不生者、不取正覚」で、仏と一切衆生はひとつであり、自分の救いと一切衆生の救いはひとつです。
 さて、われらは人知の世界にどっぷりつかっていますから、仏智の世界があるなどと思いもしない。これが不了仏智、仏智を疑うということです。
 これはけだし当たり前であって、むしろ仏智などというものがあると思う方がどうかしていると言うべきでしょう。われらが生きている人知の世界が唯一の世界であって、それ以外の世界があるはずがないと思うものです。ところがあるとき仏智がみずからその姿をあらわすことがあるのです。人知から仏智への通路はありませんが、仏智から人知への扉は開き、そこからふと仏智が姿をあらわす。これが本願に遇うということですが、こうしてはじめて仏智の世界があることに気づくのです。
 としますと仏智を疑うとは、仏智の世界をいまだ垣間見たことがないということであり、人知の世界が唯一の世界だと思い込んでいることに他なりません。人知の世界にどっぷり浸っている人を親鸞は誡疑和讃で「罪福信じ善本を、たのめば辺地にとまるなり」と詠っていました。そのように、善をなせば善果を得、悪をなせば悪果を得ると思い、自力作善につとめようとする、これが化土のありように他なりません。娑婆とは別のどこかに化土があるのではありません、娑婆が化土の相をとるのです。

タグ:親鸞を読む
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