SSブログ
『教行信証』精読2(その209) ブログトップ

選択本願悪世にひろむ [『教行信証』精読2(その209)]

(19)選択本願悪世にひろむ

 ではどのようにして善悪の凡夫人が例外なく救われるのか。その答えが「選択本願悪世にひろむ」です。選択本願(せんじゃくほんがん、浄土宗ではせんちゃくほんがん)という言い方は法然独特で、そもそも「選択」という発想に法然的なものが潜んでいると言えそうです。「選択とは、すなはちこれ取捨の義なり」(『選択本願念仏集』)と彼自身が言っていますように、「これを取り、あれを捨てる」ということです。有名な「三選の文」にその法然的な「選択」がはっきり出ています。
 「それ速やかに生死を離れむとおもはば、二種の勝法の中に、しばらく聖道門をさしおいて、浄土門に選入すべし。浄土門に入らむとおもはば、正雑二行の中に、しばらくもろもろの雑行をなげすてて、選じてまさに正行に帰すべし。正行を修せむとおもはば、正助二業の中に、なほし助業をかたはらにして、選じてまさに正定をもっぱらにすべし。正定の業とはすなはちこれ仏名を称するなり。み名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり」(『選択集』、第十六)。
 選択本願といいますのは、法蔵菩薩が「二百一十億の諸仏の浄土の中において、人天の悪を捨て人天の善を取り、国土の醜(しゅ)を捨て国土の好を取る」(同、第三)という意味で、二百一十億もの諸仏の浄土から、「これを取り、あれを捨てる」して、これ以上はないと思われる浄土を選択したということです。それがあの四十八願であり、とりわけ第十八願で、それをひと言にすれば「み名を称すれば、かならず生ずることを得」ということです。ただ念仏ひとつを選んで本願としたもうたのであり、だから、ただ念仏ひとつで救われるのです。善悪の凡夫人を憐愍すればこそです。
 本願のことを、そしてとくに第十八願のことを弘願といいますが、それは「善悪の凡夫人を弘く救う願い」という意味であるとともに、「善悪の凡夫人におのずから弘まる願い」という意味もあるように思われます。法然が本願を弘めたには違いありませんが、それは本願自体におのずから弘まる力があるからであり、本願が法然をして弘めさせているのです。それは法然が善悪の凡夫人を憐愍しているに違いありませんが、弥陀のはからいでそうせしめられているのと同然です。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『教行信証』精読2(その209) ブログトップ