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『教行信証』精読2(その210) ブログトップ

本文8 [『教行信証』精読2(その210)]

(20)本文8

 源空讃の後半です。

 生死輪転1のいへにかへりきたることは、決するに疑情をもて所止とす。すみやかに寂静無為2のみやこにいることは、かならず信心をもて能入とすといへり。(還来生死輪転家、決以疑情為所止、速入寂静無為楽、必以信心為能入)

 注1 生死輪廻を繰り返すこと。
 注2 しずかな悟りの境地。

 (現代語訳) いつまでも生死の絆が切れず輪廻を繰り返すのは、ひとえに本願に対する疑いが晴れないからです。すみやかにしずかな悟りの境地に入れるのは、ただ本願を信ずることによるのです、と法然上人は言われました。

 この偈文のもとになっているのは、選択集、第八にある「生死の家には、疑ひをもつて所止とし、涅槃の城には信をもつて能入とす」という文です。
 すぐ上にありましたように、「み名を称すれば、かならず生ずることを得」るのですが、ただやみくもに「み名を称すれば」救われるわけではありません、「み名を称すれば、かならず生ずることを得」ると信ずることが必要です。それはそうだ、み名を称えるのは、そうすることでかならず往生を得ることができると信じるからであって、そう信じない人は称えないだろうよ、と言われるかもしれません。だから、み名を称えている人は、みんな信じているに違いないと。
 そうでしょうか。親鸞はこう言います、「真実の信心は、かならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり」(信巻)と。ほんとうの信心があれば、かならずみ名を称えるが、み名を称えているからといって、かならずしも信心があるとは限らないというのです。どうやら、「念仏するからには信心があるに違いない」というときの信心と、「念仏しているからといってかならずしも信心があるとは限らない」というときの信心は別もののようです。

タグ:親鸞を読む
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