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接続助詞「ば」 [『教行信証』精読2(その212)]

(22)接続助詞「ば」

 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。

 「み名を称すれば、かならず生ずることを得」という文を、み名を称えることが因となり、のちに往生という果が得られると受けとりますと、そこから往生を得るためにはみ名を称えなければならないという指針が出てきますが、み名を称えること自体が往生を得ることに他ならないと理解しますと、そこにはそうした目的・手段の関係(計算)が入り込む隙間がありません。気がついたらもうみ名を称えていて、そしてそのときにはすでに往生を得ているのです。
 こうした異時因果と同時因果の違いは口語文法では見分けがつかず、見てきましたように、「人に親切をすれば、幸せになる」はどちらとも取れます。しかし文語文法ではきちんと区別できます。「み名を称すれば、かならず生ずることを得」と言いますと、これは同時因果であり、異時因果を表そうとしますと、「み名を称せば、かならず生ずることを得」と言わなければなりません。前にも言いましたが、動詞の未然形に「ば」がつけば仮定条件を表し、已然形に「ば」が接続しますと確定条件となります。「み名を称せば」は未然形プラス「ば」で、「み名を称するならば」の意味となり、「み名を称すれば」が已然形プラス「ば」で、「み名を称するから」となります。
 さて、「念仏するからには信心があるに違いない」と言うときの信心と、「念仏しているからといってかならずしも信心があるとは限らない」と言うときの信心はどう違うか。
 前者は「み名を称せば、かならず生ずることを得」と信じているのに対して、後者は「み名を称すれば、かならず生ずることを得」と信じているということです。そしてここで「すみやかに寂静無為のみやこにいることは、かならず信心をもて能入とすといへり」というこの信心は、言うまでもなく「み名を称すれば、かならず生ずることを得」と信じることで、もうひとつ踏み込んで言えば、み名を称していることが、すでに信じていることであり、そしてそれがもう浄土に生まれていることです。それに対して「み名を称せば、かならず生ずることを得」と信じるのは、往生をえるための打算として念仏することに他なりません。

タグ:親鸞を読む
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