SSブログ
『教行信証』精読2(その213) ブログトップ

本文9 [『教行信証』精読2(その213)]

(23)本文9

 さて正信偈の最後の締めです。

 弘経の大士・宗師等、無辺の極濁悪を拯済(じょうさい)したまふ。道俗時衆、ともに同心に、ただこの高僧の説を信ずべし。六十行すでにおはんぬ、一百二十句。
(弘経大士宗師等、拯済無辺極濁悪、道俗時衆共同心、唯可信斯高僧説 六十行已畢一百二十句)

 (現代語訳) 浄土の教えを弘めてくださったこれらの高僧たちによって、われら数限りない極悪人が救われてきました。僧・俗を問わず、みんながともに同じこころで、ただただこれら高僧たちのおことばを信じてまいろうではありませんか。以上60行、120句の正信偈を終わります。

 われら無辺の極濁悪を救うのは弥陀の本願であり、それを伝えてくれた釈迦の教説に違いありませんが、しかし個々の道俗時衆にとって、「あゝ、救われた」と思わせてくれるのはもっと身近にいる誰かのことばに違いありません。親鸞にとってはそれが法然という善知識のことばでした。それを端的にあらわしたものが、「親鸞におきては、ただ、念仏して弥陀にたすけられまひらすべし、よきひとのおほせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」という歎異抄第2章のことばです。「念仏して弥陀にたすけられまひらすべし」という「よきひとのおほせ」によって親鸞は救われたのです。
 弥陀の本願は「よきひとのおほせ」によってはじめてわれらに届けられるということ、ここにはよくよく考えなければならないことがあるような気がします。永遠と「いま」の問題です。弥陀の本願は永遠なるものですが、それは「いま」はじまるということ。永遠なる弥陀の本願は「よきひとのおほせ」により「いま」はじまるのです。「いま」はじまることがなければ、永遠なる弥陀の本願はどこにもありません。永遠は「いま」をおいてどこかにあるのではありません、「いま」姿をあらわすことにおいてしかどこにも存在することができないのです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
『教行信証』精読2(その213) ブログトップ