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発起序がない! [『阿弥陀経』精読(その2)]

(2)発起序がない!

 経典は普通、序分、正宗分(しょうしゅうぶん)、流通分(るずうぶん)の三段に分けられます。序説・本論・結論(教えを後世に流布することを勧めるということで流通分と言われます)ということです。そして序分では教えが説かれた時、処、法座に連なっていた人たち、どのような経緯で教えが説かれることになったのかなどが述べられますが、それがさらに「証信序(しょうしんじょ)」と「発起序(ほっきじょ)」に二分されます。証信序はその教えが信ずべきことを述べるところで、この経には正しく法(真理)が説かれているということを証明します。発起序はどのような縁でこの教えが説かれるに至ったのかを述べる段です。
 いま読みましたところは証信序にあたりますが、では発起序はといいますと、この経典には発起序がないのです。
 『大経』にも『観経』にも発起序があり、それぞれに非常に重要な役回りをしています。『大経』では、ある日、阿難が「世尊、諸根悦予(えつよ、よろこびにあふれている)し、姿色清浄にして光顔巍々(こうげんぎぎ、顔が光輝いている)とまします」ことに驚き、釈迦に「なんがゆゑぞ、威神光々たることいまし、しかるや」と尋ねたことが機縁となり、「阿難、あきらかに聴け、いまなんじがために説かん」と弥陀の本願の教えを説きはじめることになったのでした。親鸞はここに『大経』こそ真実の経であることを示す根拠があるとして、「これ真実の教を顕す明証なり。まことにこれ、如来興世の正説」であると宣言したのです(『教行信証』「教巻」)。
 また『観経』では王舎城の悲劇(阿闍世が父王を殺害して王位を奪うという出来事)を背景として、わが子・阿闍世に幽閉された韋提希が釈迦に向かって「やや、願はくは世尊、わがために広く憂悩(うのう)なき処を説きたまへ」と教えを求めたことがきっかけとなり、釈迦が「なんぢいま知れりやいなや。阿弥陀仏、ここを去ること遠からず」と説きはじめたのでした。このように、大事な教えが説かれるにはそれに至る機縁があり、それが教えの内容と深く結びついているものですが、『阿弥陀経』にはその発起序がなく、証信序のあといきなり正宗分がはじまるのです。親鸞はこの点に注目して、次のように述べています、「この『経』は無問自説経と申す。この『経』を説きたまひしに、如来に問ひたてまつる人もなし。これすなはち釈尊出世の本懐をあらはさんとおぼしめすゆゑに、無問自説と申すなり」と(『一念多念文意』)。

タグ:親鸞を読む
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