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ほとけの願い [『阿弥陀経』精読(その9)]

(9)ほとけの願い

 しかしどうして事実として語るとピンとこないことが物語として語ることですーっと通るのでしょう。
 ここでまた登場するのが「こちらからゲットする」と「むこうからゲットされる」の対です。「真実の願い」を「こちらからゲットしようとする」のと、「真実の願い」に「むこうからゲットされる」のと。「みんなが救われてはじめて自分の救いもある」という「真実の願い」をこちらからゲットしようとしますと、「そうは言っても、われらはみな自分の救いに血道を上げているではないか」という疑念が頭をもたげてきます。かくして「自分の救い」と「みんなの救い」が矛盾対立してしまい、「真実の願い」をうまくゲットできない。
 しかし「みんなが救われてはじめて自分の救いもある」は「真実の願い」としてわれらに有無を言わせず迫ってきます。この願いにわれらは「むこうからゲットされる」のです。そしてこのことを語ろうとしますと、どうしても物語が必要になってきます。「むこうから」とはどういうことかを言おうとしますと、「ほとけから」と言うしかないからです。かくして「法蔵菩薩の因位の時、世自在王仏の所にましまして、…無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり」(正信偈)と説かれることになります。「みんなの救い」が「ほとけの願い」として一切衆生にかけられていると語らざるをえないということです。われらはみなそれぞれに「自分勝手な願い」をもって生きているのですが、そんなわれらに「そのままわたしのもとに帰っておいで」という「ほとけの願い」が届いている―これが「真実の願い」を物語として語るということです。
 「これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ。その土に仏まします、阿弥陀と号す。いま現にましまして法を説きたまふ」と説かれるのは、「この土」に真実はないが、「これより西方に」極楽があり、そこにまします阿弥陀仏から真実の光がわれらのもとに届いており、その光に照らされてわれらは生きていくことができるのです、と語っているのです。

                (第1回 完)

タグ:親鸞を読む
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