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世間虚仮 [『阿弥陀経』精読(その11)]

(2)世間虚仮

 聖徳太子のことばとされるものに「世間虚仮、唯仏是真(せけんこけ、ゆいぶつぜしん)」があります。世間には真実がなく、ただ仏にだけ真実があるというのですが、このことばはわれらを否応なく頷かせる力があります。さてしかし、その一方で、このことばには不条理がつきまといます。世間(この娑婆世界ということです)には真実がないということを、どのようにして知ることができるのかということです。「世間には真実がない」と言う人が世間にいるとしますと、その人の言うことも真実ではないということになり、どうしようもないパラドクスに巻き込まれます。もしそのように言う人がこの世間にいないとしますと、その人はもうこの世の人ではないということです。
 としますと「世間虚仮」ということばはただのナンセンスでしょうか。親鸞は同じ趣旨のことを「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなし」と言いましたが(『歎異抄』後序)、このことば自体が「そらごとたわごと」でしょうか。とんでもありません、このことばには有無を言わさぬ迫真性があり、われらのこころをグイッとつかみ取って放しません。このことばは、われらがそれをつかみ取ろうとしますと火傷を負ってしまうのですが、なんと、このことばがわれらをつかみ取って放さないのです。
 このことばはわれらから出るものではなく、どこかからやってくるということです。さてしかし、いったいどこからやってくるのか。ここに「これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ」と言わなければならない必然性が出てきます。そして「その土に仏まします、阿弥陀と号す。いま現にましまして法を説きたまふ」のだとしますと、「世間虚仮、唯仏是真」や「よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなし」はそのようにしてむこうからやってくるということです。その声がこの土にいるわれらのこころに届き、しっかりつかみ取って放さないのです。

タグ:親鸞を読む
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