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内在と超越 [『阿弥陀経』精読(その12)]

(3)内在と超越

 さてでは結局のところ真実はどこにあるのでしょう。「世間虚仮」であり、「よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと」であるとしますと、真実は「ここ」にはないということになりますが、しかしだからといって、それは「これより西方に、十万億の仏土を過ぎ」たところにあると言って済ましているわけにはいきません。そんなに遠く隔たったところにある真実をどのようにして知ることができるのかという問いがすぐさま突き付けられます。そこが「ここ」とは無縁の世界でしたら、そこにある真実もわれらとは無縁であると言わざるをえません。としますと、真実は「ここ」に内在するのではありませんが、しかし「ここ」からはるかに超越しているのでもないということです。
 真実は「ここ」に内在しているのでもなければ、「ここ」から超越しているのでもない、これはいったいどういうことでしょう。
 もういちど「世間虚仮、唯仏是真」ということばに戻りましょう。われらはこのことばをつかみ取ることができず、それがわれらをつかみ取るということでした。これは、このことばはわれらの中から出るものではなく、むこうからやってきてわれらのこころに沁みわたると言い換えることができましたが、「われらの中から出るものではない」ということが「内在しているのではない」ことに他ならず、「われらのこころに沁みわたる」ということが「超越しているのでもない」ことに他なりません。
 大きな円のなかに小さな円がある図を思い浮かべてください。大円が「ここ」、小円が真実という関係、これが内在です。真実は「ここ」の内にあります。一方超越というのは、こちらに大円(「ここ」)があり、その外部のはるかな遠くに小円(真実)があるという関係です。真実は「ここ」とは無縁の世界に超然としてあります。では「内在ではなく、超越でもない」というのはどういう図になるでしょう。最初の場合と同様、大円のなかに小円が包まれるのですが、今度は大円が真実で、小円が「ここ」という関係になります。大きな真実のなかに「ここ」が包みこまれている―これが真実は「ここ」に内在するのではないが、しかし「ここ」から超越しているのでもないということです。

タグ:親鸞を読む
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