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娑婆と極楽 [『阿弥陀経』精読(その13)]

(4)娑婆と極楽

 真実という大円のなかに「ここ」という小円が包みこまれているという図をもとに、もう少し考えつづけたいと思います。
 真実という大円とは取りも直さず極楽国土で、そのなかに包まれる「ここ」という小円は取りも直さず娑婆世界ですから、極楽国土は娑婆世界から遠く隔たっているのではなく、娑婆世界にすぐ接して極楽国土が広がっているということになります。そこで考えたいのはその境界線のことです。境界線と言いましたが、それはわれら(娑婆世界)から見てのことであるということ、このことをまず考えなければなりません。われらはそうと意識することなく、厚い壁をつくってそのなかにその中にみずからを閉じこめています。それがこれまで「われへの囚われ(我執)」ということばで言ってきたことで、われらは無意識のうちにみずから「わたし」という牢獄のなかに囚われているのです。
 この「わたし」という壁がある限り、極楽国土は「これより西方に、十万億の仏土を過ぎて」あり、「ここ」とは絶対的に超越したところとならざるをえません。
 しかし「わたし」という壁などというものはそもそも存在しないとしたらどうでしょう。自分でそうと意識することなく閉じこめているとか囚われていると言ってきましたのは、もともとそんな壁(境界線)はありもしないということです。極楽国土という大きな円からしますと、娑婆世界との境界線などどこにもありません、ただ大きな円があるだけです。だから極楽国土の光明(光は真実の智慧を象徴します)は何ものにも遮られることなく、一切衆生の上に降り注いでいます。正信偈に「摂取の心光、つねに照護したまふ。すでによく無明の闇を破すといへども、貪愛瞋憎の雲霧、つねに真実信心の天に覆へり。たとへば日光の雲霧に覆はるれども、雲霧の下あきらかにして闇なきがごとし」とありますように、いくら「わたし」という壁(貪愛瞋憎の雲霧)を設けようと、そんなものは素通しにして弥陀の光明はわれらに届いているのです。
 極楽国土はわれらの目の前に現在しています。

タグ:親鸞を読む
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