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『阿弥陀経』精読(その16) ブログトップ

名号を執持する [『阿弥陀経』精読(その16)]

(7)名号を執持する

 少し先になりますが、極楽国土の荘厳を讃える段が終わり、次にその極楽国土へどのようにすれば往生できるかという、この経の肝心要の箇所がはじまるに当り、こう述べられます、「舎利弗、もし善男子・善女人ありて、阿弥陀仏を説くを聞きて、名号を執持(しゅうじ)すること、もしは一日、もしは二日、もしは三日、もしは四日、もしは五日、もしは六日、もしは七日、一心にして乱れざれば、その人、命終の時に臨みて、阿弥陀仏、もろもろの聖聚と現じてその前にましまさん」と。
 細かいことはその段を読むときのことにしまして(第3回)、ここで注目したいと思いますのは「名号を執持すること」が往生の行として何の説明もなく突然出てくることです。名号を執持するとは、言うまでもなく、阿弥陀仏の名を称えることですが、さてどうして極楽国土に往生するのに、阿弥陀仏の名を称えることが持ち出されるのか、この文を読むだけでは判然としません。しかし、実はいま読んでいるところにその伏線が張られているのです。すなわち、極楽国土にはさまざまな鳥の声や風の音が響いていますが、それは「みなこれ阿弥陀仏、法音を宣流せしめんと欲して」のことであり、「この音を聞くもの、みな自然に仏を念じ、法を念じ、僧を念ずるの心を生ず」と説かれていることに関係してくるのです。
 「仏を念じ、法を念じ、僧を念ずる」というのは、仏法僧を称える(たたえる、とともに、となえる)ことに他ならず、極楽国土には仏を称え、法を称え、僧を称える声が満ち満ちているということです。仏法僧を称える声とは南無阿弥陀仏を称える声に他なりませんから、極楽国土とは南無阿弥陀仏が満ち満ちている世界です。前にも言いましたように、その声は極楽国土に限られることはありません、十方微塵世界に隈なく届いているに違いありません。そして、その声が聞こえたということは極楽国土と阿弥陀仏に遇えたということです。だからこそ、こう言えるのです、「舎利弗、もし善男子・善女人ありて、阿弥陀仏を説くを聞きて、名号を執持すること」で極楽浄土に往生できるのだと。いや、極楽浄土から聞こえてくる声に唱和して南無阿弥陀仏を称えるとき、その人のこころはもうすでに極楽浄土にいるのです。

タグ:親鸞を読む
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