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正定聚不退 [『阿弥陀経』精読(その19)]

(10)正定聚不退

 さて次に極楽国土の声聞・菩薩衆ですが、このように説かれます、「また舎利弗、極楽国土には、衆生生ずるものはみなこれ阿毘跋致なり。そのなかに多く一生補処あり」と。阿毘跋致とは不退のことで、その位に至るともう何があっても仏になることから退転しないという意味であり、菩薩道52階位のなかの第41位に当たります。そして一生補処とはこの一生を終えると仏となる位で、菩薩としての最高位とされます。このような違いがありますが、親鸞はどちらも正定聚、すなわち正しく仏となることに定まったものと理解しています。
 ここで大事なのは極楽国土の聖聚というのは正定聚のことであるという点です。つまり極楽国土とはすでに仏となったものと仏となることに定まったものの世界であるということです。正定聚とは極楽国土へ「往生することが定まった」ものとする誤解がしばしば見られますが、しかし正定聚とはすでに往生し「仏となることが定まった」ものを指すことは明らかです。すなわち往生することと正定聚となることは同じことを意味するのです。それは『大経』で言いますと、第18願の成就文に「かの国に生ぜんと願ぜば、すなはち往生を得、不退転に住せん」とあることからも了解できます。往生を得ることと不退転に住すことは同じことを意味します。
 仏になるのはまだ先のことでも、すでに仏となることに定まったのですから、親鸞はこれを「仏とひとし」と言います。このように、往生することができれば「仏とひとし」くなるのですから、「舎利弗、衆生聞かんもの、まさに発願してかの国に生ぜんと願ふべし。ゆゑはいかん。かくのごときの諸上善人とともに一処に会することを得ればなり」と言われることになります。ここに「倶会一処〈くえいっしょ、ともに一処に会することを得)」というよく知られたことばが出てきます。念仏の道を歩み「仏とひとし」くなられた人たちと同じ世界に出ることができるということです。さてしかし、それはどのようにして可能なのか、これが次の問題です。

                (第2回 完)

タグ:親鸞を読む
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