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『阿弥陀経』精読(その20) ブログトップ

本文1 [『阿弥陀経』精読(その20)]

           第3回 名号を執持すること

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 前段の最後に「舎利弗、少善根福徳の因縁をもつてかの国に生ずることを得べからず」とありました。自力のわずかな善根功徳で極楽国土に往生することはできないというのですが、ではどうすればいいのか。『阿弥陀経』の要となるところです。

 舎利子、もし善男子・善女人ありて、阿弥陀仏を説くを聞きて、名号を執持(しゅうじ)すること、もしは一日、もしは二日、もしは三日、もしは四日、もしは五日、もしは六日、もしは七日、一心にして乱れざれば、その人、命終(みょうじゅ)の時に臨みて、阿弥陀仏、もろもろの聖聚(しょうじゅ)と現じてその前にましまさん。この人終らん時、心顚倒せずして、すなはち阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得。舎利弗、われこの利を見るがゆゑに、この言を説く。もし衆生ありて、この説を聞かんものは、まさに発願してかの国土に生るべし。

 この文を読みますと、「名号を執持すること、もしは一日、もしは二日、もしは三日、もしは四日、もしは五日、もしは六日、もしは七日、一心にして乱れざれば」という箇所から、一心不乱に念仏することにより往生できるという印象が強く残りますが、大事なのはそのすぐ前の「阿弥陀仏を説くを聞きて」という文言です。このことばは当面は釈迦が阿弥陀仏について説くのを聞いてという意味ですが、しかしその背後に隠された意味を汲み取らなければなりません。
 前回見てきましたように、極楽国土は光の溢れる世界であるとともに麗しい音に満ち満ちた世界でした。そしてそれは「みなこれ阿弥陀仏、法音を宣流(せんる)せしめんと欲して」のことであり、「この音を聞くもの、みな自然に仏を念じ、法を念じ、僧を念ずるの心を生ず」と説かれていました。ここには名号ということばは出てきませんが、極楽国土は名号が満ちている世界と受けとめることができます。としますと、「阿弥陀仏を説くを聞きて」とは阿弥陀仏の名号を聞いてということに他ならないことになり、そう了解することで、第18願成就文の「その名号を聞きて信心歓喜し、乃至一念せん(聞其名号、信心歓喜、乃至一念)」とつながってきます。そしてまた、なぜ「名号を執持すること」が往生することになるのかが納得できるようになります。そのあたりの事情を筋道立てて見ていきたいと思います。

タグ:親鸞を読む
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