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命終の時に臨みて [『阿弥陀経』精読(その23)]

(4)命終の時に臨みて

 親鸞は関東の弟子への手紙のなかでこう言います、「来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終といふことは、諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり。…真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり」(『末燈鈔』第1通)と。そうしますと、『阿弥陀経』に「命終の時に臨みて、阿弥陀仏、もろもろの聖聚と現じてその前にましまさん」とあるのは、諸行往生のことであり、真実の信心をえていない自力の行者にあてはまることとなります。
 『教行信証』の大事な仕事が、浄土三部経のなかでも『大経』が真実の経典であり『観経』と『小経』は方便の経典であることを明らかにすることです。
 方便の経典といいますのは、その表だった教え(これを顕説と言います)は確かに諸行往生であるけれども、その下に隠れた真意(これを隠彰‐おんしょう‐と言います)は念仏往生であるということです。すなわち『観経』と『小経』は一見したところ諸行往生を説いているようですが、その真意は人々を『大経』の念仏往生へと導こうとしているというのです。どうしてそんな回りくどいことをするのかといいますと、真実の念仏往生はそれだけ「信楽受持すること、はなはだもつて難し」(「正信偈」)であるからです。そこでまず方便として受持しやすい諸行往生を説くことにより、そこから真実の念仏往生への転入を促そうということです。
 親鸞はしばしば経釈を大胆に読みかえたり、思いもよらない読み方をしたりしますが、それは方便の教えのなかに真実が隠されていることに目を向けさせようとしてのことに違いありません。いま問題となっている「命終の時に臨みて」に関係する事例をひとつ上げますと、『一念多念文意』のはじめに善導の『往生礼讃』の文「恒願一切臨終時 勝縁勝境悉現前(つねに願はくは一切臨終の時、勝縁・勝境ことごとく現前せん)」を取り上げ、こんなふうに注釈しています、「一切衆生臨終時といふは、極楽をねがふよろづの衆生、いのちをはらんとき〈まで〉といふことばなり」と。「臨終のとき」とあるのを「いのちをはらんとき〈まで〉」と読んでいるのです。

タグ:親鸞を読む
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