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幻聴か [『阿弥陀経』精読(その27)]

(8)幻聴か

 ある研究会で、南無阿弥陀仏はこちらから称えるより前に、むこうから聞こえてくるのです、むこうから「帰っておいで」と呼びかけられるから、こちらから「はい、ただいま」と応答するのですとお話ししたのですが、そのとき「それは幻聴ではないかと言われたら、どう答えられますか」と尋ねられました。その場ではうまく答えることができませんでしたが、今ならはっきりお答えできます。もし誰もいないところで突然「帰っておいで」という声が聞こえてきたら、それは幻聴と言われても仕方がないでしょうが、南無阿弥陀仏はそうではありません。どなたかが語られていることばを通して、そのことばのなかから「帰っておいで」の声が聞こえてくるのです。
 むかしこんなことがありました。欝々としたこころをかかえて家の近くの農道を散歩していたときのことですが、むこうから見知らぬ老夫婦が歩いてこられ、すれ違いざまに「こんにちは」と挨拶してくださいました。そのとき、その声が「そのまま生きていていいよ」と聞こえたのです。ぼくはこころの中に「こんなふうに生きていて意味があるのか」という重い問いを抱えていたのですが、それに「生きていていい」と応えてくださったように聞こえたのです。老夫婦のことばは「こんにちは」であり、ぼくにも紛れもなく「こんにちは」と聞こえました。しかしその「こんにちは」を通して「そのまま生きていていいよ」という声がしてきたのです。
 もし老夫婦の「こんにちは」の声そのものが「そのまま生きていていいよ」と聞こえたとしたら、それは幻聴と言わなければなりません。ぼくのこころが病んでいて、ありもしない声を聞いてしまったということです。しかしぼくの耳には間違いなく「こんにちは」と聞こえました。だからこそすぐさま「こんにちは」と返答したのです。ですからぼくは幻聴を聞いたのではありませんが、しかしその「こんにちは」を通して、そのなかから「そのまま生きていていい」という不思議な声が聞こえてきたのです。これが南無阿弥陀仏に遇うということです。

タグ:親鸞を読む
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